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015 花柄の行く末

 実際に飛び上がりはしなかったが、まさにその慣用句に相応しい驚きは、結局私の足をもつれさせ、肩をガラス窓の棚にぶつけさせた。

 絶え間ない微かな雨音をかき消すような、大仰な音が上がる。


「大丈夫、ですかな……?」


 間髪入れずに、奥から少し大きな呼びかけがあった。

 姿は全く見えないが、歳を重ねているらしい声。店主だろうか、しわがれた、ちょっと厳しそうな男性のものだ。


「だ、い、丈夫です! すみません」


 何とかそう絞り出せば、少し呼吸を置いて、また同じ調子の声が続いた。


「お気を付けてくださいよ。掘り起こすことはできても、庇うことはできない。間に合いませんからな」


 この言い草に、少しくすりとした。

 日本なら、何らかの法律に引っ掛ってもおかしくない状況の店内である。居直りもいい所だが、きっとこの通路を夢中で歩くことのできる、もの慣れたお客さんのための場所なのだろう。

 こういう空間が好きな人にとっては時間を忘れて嵌り込める店であることは疑いようがない。


「わかってます」


 そう答えながら、私はきょろきょろと落ち着きなく回していた視線をやっと、心身を動揺させた声の発生源に向けることに成功した。


「あの、ごめんなさい。そんなに驚くとは思っていなくて……」


 改めて、ようやっと濃紺の暗闇に慣れ始めていた目に、小学生くらいの背丈の少女の輪郭を映す。

 光が足りず、どうも何かしらの耳が生えているらしいということくらいしか分からない、色のない小さな頭がぴょこんと下げられた。


 私の腰の引けた足取りが見えていたかのような口ぶりだ。この子は猫系とかそういう感じか?

 その動物の耳ないしは特徴を持っていれば、外見以外もそれに準じているのだろうからーーあの時ぶつかったワニさんは、自分の方が種族的に頑丈であると言っていたではないかーー、夜目が利く種族だって存在するに違いない。


「いや、こちらこそ大袈裟に驚いてしまってごめん。近くに誰かいるとは思ってなかった」


 少女が笑顔を見せたような気配がした。本当のところはわからない、よく見えないから。


「いいえ! お兄さん、何か探してるようには見えなかったし、私と同じかと思ったらつい声をかけちゃって……」

「私と同じ?」

「うん」


 少し間があいた。

 それから体を伸ばすようにして、入口の方向ーーつまり棚やら謎の金属板やらのせいで全く見えない代わりに、さあさあと微かな音が聞こえてくる私の斜め後ろ側ーーを見遣る仕草を曖昧な輪郭で縁取らせながら、その子は言った。


「雨宿り」


 ーー雨宿り。


 ちょっと小さな声で、こそっと発せられたのは何とも可愛らしい響きの単語だった。


「っ果物を買うお使いだったの、でも途中でガラの実を買ってないって思い出して、それでもう一回お店に戻ろうとしたら、かわいい髪留めがあって、そしたら妹に似合いそうな髪紐があって、それで、それで……」

「ああ、うん、そうだよね、買い物に行くとついつい色々見ちゃうよね……!?」


 彼女の大きな声によって突然私たちの精神的距離が詰まって、私は慌てた。坂を転がる早口の弁明に焦って、意味の無い合いの手を打った。雨宿りなんて私にとっては中学生くらいの頃以来の懐かしい言葉で、その郷愁からの僅かな沈黙をしかし彼女が良くない方向に受け取ったのは確かだった。

 雨は急に強く降り出した訳ではない。誰も傘などさしていなかった昼下がりに家を出て買い物を終わらせ、じわじわと帰宅が困難になってゆくのにも気付かず、想像ではあるがきらきらした繊細なヘアアクセサリーに夢中になってしまったのだろう。


「うん…… でもお母さんきっと怒ってる……」


 途端に声に勢いがなくなり、膨大な古物の圧力の中に消え入るように彼女の後悔はそう結ばれた。

 ……しかし「怒ってる」というより心配して気が気ではなくなっているのではないだろうか。


「……そっか。お母さん、きっと心配してるね」


 なんと声をかけるべきか迷い、沈黙は避けるべきだと気が急いた結果、なんの捻りも加えずにそのまま言葉にしてしまった。

 駄目だ。最悪だ。私が言い終わらないうちに、彼女は蚊の鳴くような呻き声を上げている。


 どれ程のコミュニケーション力が必要なシチュエーションなのだろうか、これは!


 この幼い少女を力付ける言葉が何一つ出てこない。やってしまった。そもそも展開が急だ。心の準備が出来ていない。


 子供と適切な会話をするには、普段から子供と会話をしている必要がある。

 病院事務時代、患者や患者の家族の子供の話を聞いたり励ましたりするのを、事務の同僚、医師看護師陣に任せっきりにしてしまっていた弊害がこんなところで出てくるとは……

 ええと…… 早くなにか言わないと泣いてしまうのではないか? 心細いに違いない、こんな、こんな、雨の夜に。


 ええと、ええと……


 ーーあ、傘。


 そう、そうだ、傘だ。

 一文無しの私は、傘だけは、いや、傘なら持っている!


 採るべき道が明らかで、更には案外容易に実行できそうじゃないか。

 信じられないとさえ思える。


 ……良かった。


 店の傘立てには今、私の傘しか入っていない、つまりこの店には彼女に貸す傘がないのだ。傘という傘は何らかの事情ですべて出払っている。

 店主は走って帰れもしようが、少女には酷な話だ。まあもう少し待てば、母親が探しに来てくれるのかもしれないが。


 明るい気持ちで思考が回る。

 店主が信用できそうで、この店が貸傘加盟店なら、しかし話は簡単だ。

 不審な第三者の私に同行の必要は無い、ここで傘を返却し、そしてそれを使って店主に彼女を家まで送ってもらおう。私の方はここで雨中に放り出されてもまあ、構わない。

 店主は一人、そのまま花の傘で家に帰るなりしてもいい。


 そうでなければ、最悪私が送って帰そう。多少彼女の愛情深い家族に鋭い目で見られようとも少女の雨避けになれると思えば安いものじゃないか。


 ここまで延々情けない限りの一日だったがようやくマシな行動が取れそうである。

 安堵のあまり、私の方がちょっと鼻の奥に涙の気配を感じてしまう。


 よし、彼女がこれ以上不安な思いをする前に。


「大丈夫、傘があるからすぐにお家に帰れるよ」


 私は今日一番の自信を乗せて、目の前のほとんど姿かたちのわからない少女にそう言って笑った。

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