014 骨董と少女
日暮れの視界の中に、雨はもはや溶け入るようだった。
ほとんど見えない細い雨は、それでも量は十分らしく、傘の上を盛んに踊り跳ねる音が水滴の存在をしっかりと主張している。
一軒交渉に失敗する毎に往来からは嘘のようにみるみる人が減ってゆき、少し奥まった場所にあった五軒目から這い出てみれば既に、ぽつりぽつりと二、三の濃い人影が石畳を渡るだけである。黒く長いスカートのシルエットたちが粛々と移動してゆくのは、少し恐ろしい。
爪先はまた、大通りを向いていた。
実際、こう暗くては新しい街並みを開拓するのは現実的ではない。
夜、知らない場所をうろついてはいけない。
今の私は門限をすぎて迷子になった中学生…… いや、中学生は、こういう時むしろ大胆な行動力を発揮するイメージがあるな。実際のところはどうなのだろう……
とにかくほんの僅かばかりでも土地勘があり、かつ、犯罪の起こる可能性の低そうな、人の目のある場所に行かなければならない。
夜の早い街である。
先程通った時にしっかり営業していたはずの料理屋や商店はもう、新規の客の取り込みを終了しており、閉店準備に取り掛かっている所さえある。旨そうな匂いは影だけを残し、扉の横にあった自立式の二つ折り看板は位置をずらされて扉を塞いでいる。
店内からはまだ楽しげな声音が聞こえてはいるが、ふわふわと頭を揺らして店員と別れの挨拶を交わす、ほろ酔いの客も少なくない。
それなりの数の店がありながら、漏れ出る光の少ない、いや殆どないと言って良い道だ。
一日の活動を終わらせんとする人々を、家へ、今夜の寝床へと、夕闇色に沈みゆく橙に乗せて運んでいる。夜間は元々あまり動きのない街なのだろうか、雨粒の仕業なのだろうか。
そう時間を置かずにここからも人影は流れ切ってしまうだろう。
ジーンズの裾に跳ねた水が、足首まで届いて、少し冷える。今が春の夜として、ここから気温は更に下がってゆくかもしれない。
角を曲がって、花屋の通りに出る。やはり人通りは少なかった。
そもそもこのルジーア・ストリートは店が連なっているようなところではなく、装飾の少ない扉を持つだけのアパート、それらしく言うならアパルトメントのような建物も多い、繁華街と繁華街を繋ぐ通路道だ。大きな話し声が聞こえなくとも行き交う人があれば空気はざわめくものだが、僅かな通行人ごときでは雨音の静謐さには勝てない。
花屋も当然のように閉店していた。
日本のようにシャッターはなくとも、花で満たされていたはずの樽には雨水がなみなみと溜まり、行儀よく店の入口の前に並んでいる。青々とした葉の名残はと言えば大きな鉢植がいくつか残っているだけで、もはや一見して花屋とはわからなくなっていた。
こういうことに詳しくない私は雨でも降ればいくらでも植物はそれを浴びたいだろうと思ってしまうが、恐らく誤りなのだろう。
「あれは?」と思って足を止めたのは、その掻き消えた緑のオアシスを過ぎ、一、二分歩いた時だった。
既に大通りが目と鼻の先で、なんとはなしに早歩きになり掛けた瞬間、視界の隅に入った店舗。
そこは道沿いからは少し奥まった、ちょっとした窪みの中に存在していた。
こじんまりしていて、可愛らしい。
なんの店だろう?
出入口にはドアがないと見える。
その代わり、石の壁に無理やりに取り付けたような木製のひさしが大きく張り出していて、夜の入りに落ちる尚暗いその影が、雨粒から店内を守っているようだった。
ぴちゃぴちゃとスニーカーを鳴らして、誘われるように数歩、足を進めた。
ーー骨董品屋?
さて、覗いた店内は、大変な水気に満ちみちていた。
入口ぎりぎりまで商品がはみ出していて、少し近付けば誰もが店のスタンスを理解することが出来るような店だが、一方で本当にここは商品を保管・陳列する場所なのかと疑ってしまうほどの高い湿気。
体半分入店しただけで襲い来る酸素の不足感。だがそのせいで、品々から発せられる存在感はまさに圧巻だった。
死に際の自然光が照らす範囲で見る限り、真っ直ぐ歩くことも困難な通路に、所狭しと陶器の並んだ棚、加えて床から積み上がる木箱や紙束の塊が我が物顔で侍っている。高校時代の世界史の資料集の「文化」欄を丸ごと持ってきたかのようだ。車輪、折り重なった金糸の絨毯、井戸のポンプのようなものまである。
雨音は奇妙な程に意識から追いやられ、奥からの微かな物音だけが聞こえる。それは店主の存在を示唆してはいるが、到底視界は壁際まで広がりようもない。というかこの空間、壁なんか本当にあるのかとさえ思う。
骨董というものは嫌いではないが、間違っても目がないなどとは言えない。未知の世界甚だしい。
ただここが、その程度の意識しか持たない私から見ても、良い店であろうということは伝わってきた。なんというか、とてもわくわくするのだ。薄暗く全くと言っていいほどそれぞれの古物の全容が把握出来ず、加えて、恐ろしく商品の保存に向かなさそうな店の造りをしているとしても。
それから、骨董品屋に泊めてもらうことは多分不可能だろう。
これも重要な気付きだ。にも関わらず、入口脇の恐らく傘立てであろう空の細長い鉄筒ーーこれもなにか縁のある品なのだろうかーーに花柄の傘を差し入れた私は、実りはないとわかっていながら、本格的に店内を見て回るため、そろそろと足を動かしてしまう。
少し入りにくい雰囲気の店ではあるが、立て続けに宿屋で交渉に当たった結果、今、私には常以上の耐性が備わっている。
このような店の中で壺やら古書やらにつまずくというのは、バチが当たってもおかしくなさそうな過失である。慎重に行かざるを得ない。
ひたすらに注意深く、迷路の中に入り込んでゆく。ちょっとした現実逃避だ。逃避元が現実であるとはまだ、そう、まだ断定したくはないが……
甘く囁くような挨拶が聞こえたのは、歩行に没頭するあまり入口がいつしか遠い過去の場所になったように感じられた頃だった。
「こんばんは」
声をかけられて、飛び上がるほど驚いた。
ひっそりと暗い棚の影から、少女が顔をこちらに向けていた。