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013 臙脂の安宿

「お泊まりですかい?」


 こちらが何か言う前に、女主人は半ば予想された質問を投げかけて来た。

 その遺伝子に溶け合う動物は不明だが、彼女の肩の辺りで無造作に巻かれた焦げ茶のボブヘアの上にはささやかな一対の耳がある。

 耳有る無し棲み分け説は風前の灯火だ。


「はい。ですが、」


「お一人?」


 そう言って、帳簿を捲る。かさりと小さな音。


 彼女に近付きながら、なんと言っていいものやら、情けない気持ちになる。傘の先から、ぽたりぽたりと水滴が木の床を叩くのが、ひどく気になった。

 返事をしない私を、女主人は目を細めて見詰めている。揺れる灯りの中で、瞳孔もまた細く絞られていた。


「一人です。お金がないのです。何とか泊めていただくことはできませんか」


 少しの間の後、表情を変えないままに彼女がふっと笑った気配がして、私は止めていた息を吐いた。

 話が進んでしまう前に一気に言ってしまおうと思って勢いよく発言したは良いものの、どんな反応をされるかとやっぱり少しびびってしまっていたのだ。


「それはちょっと、うちでは難しいねえ」


 斑の細い尻尾をささやかに揺らして、女主人は口角を上げた。


「金がないって…… いちリジィも? 他のも?」


「はい。使えるどんなお金も、一枚も」


 噛んで含めるような調子さえ滲ませながらの問いに私がすぐさまこう答えると、今度こそ、彼女は喉を鳴らして笑った。

 いやらしい所のない、柔らかな笑い方だった。何処と無く漂っていた退廃的な空気が霧散する。


「この雨だ、泊めてやりたいのは山々だけど、他の客の手前もあるからね。悪いね」


「いえ、あの、……突然すみませんでした」


 ああ、やはりか。

 世の中甘くない。相手の主張が最もすぎる。


 しかし、いやいやまだこれは予想された事態だ。落胆を隠しつつ気を取り直そうと一呼吸おいて、そこでふと思いついて訊ねてみる。


「一番安い部屋って、いくらなんでしょうか。今後の参考にするので……」


「今後の参考? なんだい、そりゃ。うちは泊まるだけならリジィで2000。朝食付きで2300。部屋別に値段は変わらない。ここいらはどこもこんなもんだね」


 息を吐きながら、まだ少し笑みに震える声で明瞭ないらえを返して、彼女は小さく手のひらを肩の辺りでくるりと回した。

 羽根ペンが空気を割いて、ランプの照り返す毛先を僅かに跳ねさせる。


 なるほど。

 リジィは殆ど円と変わらない感覚なのかもしれない。

 低価格を売りにしているビジネスホテルの中には、壁に大きく泊まりの値段を書いた看板を下げているところも多い。だいたいこのくらいか、もう少し安めだったような……


 物価に関しての基準を得たのは、大きな収穫である。

 この街は多分、住み慣れた日本と同じくらいには治安が良いように思えるし、そんな場所の宿屋の値段というのは、これからものの価格を考える上で大いに参考になり得る。

 ただ…… 当初の問題は、解決していない。


 もう少し粘ってみてどうにかなる様な空気ではなかった。

 或いは、ここで必死に言い募ったら何か案を授けられたりするのだろうか?

 今までの人生で、そんなふうに要領よく立ち回り、私の到底持ちえない人徳によって結果的に三方全てを丸くおさめる有能な人間を数多く見てきたし、時にはその才に助けられたりもしたものだが、自分にはどうもこの手の能力が圧倒的に欠如している。

 この消極的な物分りの良さで、逃してきたものは多かろうと思うのだが……


 結局私はいつも通りの私を保持したまま、丁寧に礼を言い、来た時と同じようにドアを押し開き、煉瓦を叩く水飛沫の中に身を戻した。


「どうぞご贔屓に」


 少し掠れた声が、途端に激しく主張を始めた雨音の後ろに押し込められる。

 時間にして十分弱、瞬きの間のやりとりだった。肩越しに閉まりゆく隙間に向かって僅かに会釈をすれば、それだけで一つの挑戦は終わってしまう。

 駄目だったな。どうしようか。


 雨の中に立ち尽くして考えるふりをしてみるが、選択肢は多くない。予約を取っているか、十分な資金を持っているかなのだろう、各々の宿屋へと身体を飲み込ませる幾人かが目に映る。彼らは荷物を置いて、ゆっくりと体を休めることができる。私には置くべき荷物が存在しないことを棚に上げて、羨ましさが募る。


 ……見ていても仕方がない。

 もうあと何軒か、試してみよう。


 ーーということで、二軒目。


「うーん…… 多少の割引くらいならなんとかできるがタダは流石に厳しいな。すみませんね、これに懲りずにまたの機会は是非うちにお願いしますよ」


 ーー三軒目。


「申し訳ございません、本日はオーナー不在でございまして、私の一存ではお受け出来かねるのです。客室も空いておりますし、個人的な気持ちとしてはご利用頂きたいのですが……」


 ーー四軒目。


「悪いな、無理だ。ん? 客室以外でも良い? そうは言われても客室以外じゃ防犯上厳しいね。いやいやあんたが泥棒だって疑ってる訳じゃあないんだ、でもなんかあった時にリネン室や食堂の床にあんたが寝っ転がってたっていうんじゃあ他のお客さんに説明ができん。というか一文無しってのはあれか? 落としたのか? 財布。何なら憲兵に連絡してやろうか?」


 落としたのではなく元から持っていないと主張し、憲兵への通報を断り、もう少し足を伸ばした先のーー五軒目。


「ほんとうにごめんなさい、今夜は満室ですの。少し値の張るお部屋ならちょっとお待ちいただければご用意できるのだけど、ご都合が宜しくないのよね。もう日が暮れるし、なにか他の手を考えるのも良いのではないかしら」


 「満室」と「値の張る空き部屋」は、優しい嘘であろう。

 私が後から実はお金を持っていたと言い出しても快く泊めてくれるという角を立てない意思表示だ。だが悲しいかな、私の無一文は真実である。


 ……諦めよう。


 ここで私は白旗を上げた。

 これは無理だ。

 駄目だ、今夜は野宿だ。断りに続く言葉でそれとなく、私のこれからの無駄足をいたわるフレーズまで口にされて流石に認めざるを得ない。


 無理だ。少なくともこの界隈で、私の希望は通らない。


 「この街の夜は、野宿しても大丈夫な夜ですか」という質問、もしくは嘆きが喉から出かかったが、これはすんでのところで飲み込むことに成功した。

 この時目の前にいた裁定者、つまり五軒目の受付に座って完璧な応答をして見せた人間は、しかしまだ年端もいかぬように見えるブロンドの少女だった。

 こんな場面で野宿についての話題を出すなどもはや脅迫である。この娘をそんな目に遭わせる訳にはいかない……

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