012 一つあっちに入った道
さて、ゆっくりと、だが確実に覆い被さる夕暮れという名の靄によって、手を伸ばせば届く距離を行き交う輪郭が滲んでゆく。
親切な彼の背中を見送った私は、それはもう心から「そりゃそうだ」と思った。
声をかけている私が一文無しでも、リジィを持っている同行者が存在していると思うのは非常に理にかなった推理である。
しかし、そんなものはいない。
なんならこの世界じゃなくたって、私には同行者などいない。人生的な意味での同行者の話だ。つまり、私には友達が……
まあそんなことはどうでもいい、現在、聞いた話を丸々信じることに決めた私は落日の迫る中「一つあっち」の道に臨んでいる。
要するに、先程の花屋の通りーールジーア・ストリートーーの先に交わる小路に差し掛かったところだ。
この道に入り込むには恐らくもっと効率的な道程があったとは思うのだが、他の知らない道を選んであっさり行き止まりだった場合のタイムロスを考えたら恐ろしくなり、結局既知の道を通ってやって来てしまった。
こんな小さな部分にも、打って出ることのできない私の性格が如実に顕現しているようで、誰に何を言われた訳でもないのに少し自己嫌悪に陥る。大したことはしていないのに地図の上でも気持ちの上でも右往左往だ。
ちなみに両替の成果なく花屋の前をもう一度通ることに関しては、ちょっと気まずいが仕方がないと覚悟もしていたのだが、完全な杞憂に終わっている。
おっかなびっくり足を進めてみれば、青年は店先にはいなかったのだ。軒に出ていた植物たちは、大物を除いて仄暗い屋根の下にその居を移し、小さな森に似た商店は殆ど店仕舞いの様相を呈していた。
本当に早いもんだな、となるとあの青年は自分のところで私が買い物できるとは思ってなかったのに色々教えてくれたんだな…… などと考えつつ、私は足早であるにもかかわらず俊敏さの欠けらも無いちぐはぐな歩調で橙の河を下り、そしてその末に目当ての通りを辿っているという訳だった。
私だけに限らず、陰る日と雨は人をみな少しせっかちにする。
三人並んで歩けばもう窮屈なこの道は、勢いをつけて大股で歩く人々を抱えて、寧ろ活気づいているようである。
人口密度からしたら大通りを超えているだろう、一つの、或いは連れ立つ生命の塊が、傘や傘代わりの荷物を戴き、雨具を被り、ざわめきながら私を追い抜かしては交差してゆく。
どの人もどの人も、自然光が残っている内に活動を終えてしまおうとしているかのようだ。
まだ夕飯時までには少しの猶予がありそうなものだが、朝の早い職種の人間はもう腹を満たさねばならないのだろう。人の出入りが活発なのは肉や野菜らしき絵の描かれたプレートの扉たち、つまり食事処と見えた。ちなみに、盛り上がりが石畳にまで響いてくるような店はない。酒場の類はもっと裏道にあって、もっと時計の針の進んだ先に繁盛するのか。
人の流れに押されるまま進むのは若干不安ではあるが、立ち止まる理由もなく、私は通りの両側を注視しながら褪せた色の石壁に沿って進む。宿屋を探すという目的を持っているはずが、心細げに知らない道を歩いている今は、まるで寄る辺ない迷子である。
長い道だ。
状況の不透明さがそう感じさせるだけかもしれない。
せめて花の傘を持っていることができて良かった。微かな人間関係の産物が、ちょっとオーバーなくらいに有難く胸を打つ。
漂ってくる何らかの料理の香りと雨粒の生暖かさに刺激され、波のような感傷が心を侵食し始めた頃、ようやく私は目的地と考えられる一角に到着したようだった。
ベッドや椅子、食事のマークの鉄細工の看板が連なり、入ってゆく客はあれど、出てくる客は殆どいない。
客層もまちまちで、先程大荷物の猫耳女性三人組がその中の一件の扉を押し開けるのを確認したし、ぽつぽつと、背嚢やら大きめの袋を抱えた老若男女が軒先の小さなひさしの下、雨具をしっかり畳んで入口扉に吸い込まれているのがわかる。
立ち並んでいるのは豪華さのない、均一な部屋を持っていそうな小振りの建物たちだ。この道に入ってから何となく感じていたが、建物の外装は大通りよりもクラシカルに見える。
どの窓も行儀よく閉じられている。この雨だ、当然だろう。
ーーよし、間違いない。きっと。
ここが「泊まるのがあんまり怖くないレベルの安宿」街である。
最初の一軒は、なんとなく目に付いた、獣耳の生えていない人間女性一人客が入った宿を選ぶことにした。
色々な意味で最も問題が起こらなさそうだったからである。
事ここに及んであれこれ考えこの手の安全策をとるくせに、常に後手に回っていることを情けなく思いはするが、この街のルールがよく分からない以上、仕方の無いことでもある。
もはや可能性は極めて薄いだろうが、耳のないものとあるもので、何らかの棲み分けの取り決めなどあった日には、宿屋の選び方ひとつで重篤なルール軽視人のレッテルを貼られてしまうかもしれない。怖い。
傘を畳み、扉の横に料金表などの張り出しがないか確認するが、あるのは簡素かつ剛健な石が作り出すスモーキーカラーのモザイクだけだ。
意を決して木製の分厚い扉を押し開けると、ギイと蝶番が古風な音を立てた。
内装は臙脂色であった。
外よりも遥かに暗い。少し煤けた布地の匂いがする。昔親戚の家に泊まりに行き、いわゆる洋間に通された時に香ったものと同じだ。重厚で時代がかった、そのくせ現在と適切に溶け合ってみせる家具たちの無言の自己主張である。
「いらっしゃい」
頭の後ろで扉が閉まると同時に、年嵩の女性の声がした。
カウンターの奥でランプの下、一人何やら書き物をしていたようだ。
一枚膜の外に追いやられて、雨が篭った音に変わっている。
先程入っていったはずの女性客はもう姿かたちを消していた。