011 急務
雨足はまた少し、強くなっていた。「バケツをひっくり返したような」とか、「土砂降り」とかいう程ではないが、もはや小学生男子ですら傘をささずに走って下校したりはしないだろう空模様である。
いやしかし、どうしたものか。
薄ら気付いてはいたが私が目的を得たのはほんの一瞬のことだったようで、またもやここからどうすれば良いのかわからなくなってしまった。
溢れんばかりにある時間を、完全に持て余している。
街はもう、駆け足で夕暮れへと向かっていた。
空気中の自然光の密度が低くなっているような気がする。僅かな雲では隠し切れない薄い色の空。じきに茜色に変わってしまう。
私がここへやって来てから何だかんだとそれなりに時間が経っているらしい。思った以上に銀行に長居してしまったかもしれない。
あの花屋の小道の先を、探検してみようかとも思っていた。
他にも気安い店があるかもしれないし、もっと色々なことがわかるかもしれない。大通りの店はやはり繁盛しており、店員と世間話をして情報を収集するような雰囲気ではないのだ。
しかし知らない場所で、やがて夜に属そうとする時間帯に動き回るのは避けた方がいいだろうか。
ーーそれは、そうだろう。
ではこの予定は明日にして…… と考えたところで、私は大変なことに気が付いた。
泊まる場所がない。
……驚いた。
恐らく、ここ一ヶ月くらいの中で一番驚いた。
泊まる場所がないことにではない。泊まる場所がないことに気付かなかったことに、である。
毎晩あの部屋で、あの安くて適当なーーいや、建築技術と法令に寄って緻密に造りあげられていると言えばその通りであるのだがーーアパートで、スマホをいじりながら、多少「明日」という存在に怯えつつも安全に眠るのが当たり前だったせいで、泊まる場所を確保するなどという見知らぬ場所で当然やっておくべきタスクを見逃していた。
旅行や出張なら誰だって計画段階で必ず気を回す。例え旅行でも出張でもなくとも、住所地を離れた今の私は、そこに気を回しておかなければならなかった。
参った。
うーん。まず第一にそれを考えておくべきだった。
しかし、自分への言い訳としては…… そう、目が覚めないのが悪い。
何故目が覚めないのか。
もう何時間もここにいる。夢の中で長い時間が経過するようなことは確かにあるが、そういう時は急な場面転換や無茶な早送りが付き物である。ちょっとおかしくないか。これってもしかして、現実なのでは? いや……
どちらだとしても、記憶の連続性を保ったまま、感情や五感を携えてこの場所に存在し、思考し、行動しているのなら、この世界の名前が夢だろうと現実だろうとMMOだろうとVRだろうとそれは瑣末なことだ。
そんな事よりも、今考えるべきことは、今夜の寝床である。
急務がある時に限って、概念的なことを考えて現実逃避するのは人類の、もしかしたらこの世界に住む沢山の種族にも共通の癖なのかもしれないが…… いや、だから、これも、今考えることじゃない。
問題は、今夜の寝床である。
ーーホテル、旅館、宿屋、旅籠…… そういうものは、一つの『街』というまとまりの中で、どういった区画に腰を据えて営業しているものなのだろうか。
そしてその区画はどこにあるのだろうか?
こういう時、旅慣れた人間なら感覚的に理解できそうなことが、私にはわからない。
駅前なんかを考えてみる。
駅の前にある大通りが、大抵その街の目抜き通りを兼ねている。そしてそこには、ホテルはない。……ないか? ある。あるが、それはいわゆるグランドホテル・ナントカとか、カントカ第一ホテルとかいうような、政府要人やバカンス中の新婚夫婦が宿泊するような、値の張るホテルである。実際はそこまで行かずとも、一等地のホテルにはそのようなイメージがある。
今私が探さねばならない、つまり何とか融通を効かせてくれる可能性のあるような安宿は交通の要所には存在しない。格安ビジホがそうであるのと同じように。
私が歩いているこの真っ直ぐに伸びた石畳を、ひとまず街の目抜き通りだと仮定する。
そうすると恐らく、この両脇に立ち並ぶ店々の中には、安い宿泊施設は存在しない。ついでに恐らく居酒屋も、風俗店も、隠れ家喫茶も、ない。
一本入った(裏)通り。これだ。
ここまで考えて、ふと私は簡単なことに気付いた。
人に聞けば良いじゃないか。
この街の人間は大体が話しかけやすい雰囲気を纏っている。申し分のない始まりの街具合なのであるから、きっと親切に教えて貰える。
銀行に戻って聞こうかというのは流石に瞬時に没案にする。今晩のベッドに関する最適解を手にすることができるだろうが、明らかに業務外の道案内という仕事を、あの重厚な扉の向こうの紳士淑女に課すのはどうにも気が引けたためである。
となれば、その辺を行き交う人にちょっと尋ねるのが良いだろう。
善は急げで私はすぐさま狙いを定めた。
根拠はないが私を不審者と判断しなさそうであるというだけで選んだタレ目のお兄さん、私と同年代か少し年下。
「あの」と話を切り出せば、足を止めてくれた。
花の傘の下、雨音混じりに吐き出される私の質問に、彼はカーキ色の傘を少し上げて何度か相槌を打つ。
ぱたぱたと脇を抜けてゆく、とりどりの雨具の人々。雨樋から零れて橙の煉瓦に落ちる、一際大きな水のかたまり。雨の街。
彼は気さくだった。
冬毛のキタキツネのようなふはふはした耳と尻尾を、目じりと同じくらいに垂れ下げて、考えかんがえ、そして大体このように述べてくれた。
「まあ何処にでもあると言えばあるんだけど、一つあっちに入った道に、評判良いとこが何軒かあるね。でもどうかな、やっぱり良い宿屋って混むからね。飯がついてなかったり相部屋だったりするようなとこは、もっと奥に入ったところになってわかりにくいし、俺もよく知らないけど多分旅慣れてないと…… え? お金ないの? うーん…… 流石にタダ宿は知らないな…… それ探すより、同行者にでも金借りた方が良いと思う」