010 プルシャン・フロー
分厚い壁の中は、やはりと言うべきか、銀行だった。
石に囲まれた空間にも関わらず印象は明るく、ステンドグラスを通した七色の光が降り注いでいる。
いわゆる窓口は無く、客たちは丸テーブルを囲んで腰掛けて、或いは立ったまま簡単に、行員と話をしていた。
壁際に並んだ重厚な木製の机は、沈めたように深い色を僅かに自己主張しながら、革張りのトランクのような箱や、角を揃えて綴じられた紙類を抜群の安定感で戴いている。
行員は揃いの黒スーツ、厳密には現代のスーツよりも古めかしく、フロックコートと言うのだったかどうだったか、とにかく正装と言って差し支えない服装に白手袋でびしっと決めている。一方で机と机の間の、ニッチのようなスペースには、同色ながら動きやすそうな服装の、体格の良いものたちが等間隔に並んでいた。彼らは警備員だろうか。
行員も警備員も、種族や性別は様々だ。
この、教会なんだかサロンなんだかの空間が銀行だとわかったのは、「入金」「出金」などの単語が聞こえてくるのに加え、手から手へ貨幣が渡っているのが見えているという単純な理由だ。きょろきょろしている間にも、流れるように数々の取引めいたものが成立している様子である。
過度な装飾の類は一切なく、通りに面した壁の大半を占めるとりどりの色のガラス窓と、その逆側の壁に黒い鉄で品良く記された行名だけが、この場所の秩序を支配しているようだった。
プルシャン・フロー。
私が聞き返したことに少し目を瞬かせたのち、花屋の青年がゆっくりと発音し直したこの場所の名前、あの文字がそれを表している。
相変わらず硬い石の感触が、スニーカーの裏から骨を震わせている。
ゆっくり立ち止まる。
そしてその瞬間、斜め後ろから控えめな、しかし明瞭な声が掛かった。
「ようこそお越しくださいました。本日はどのようなご用向きでしょうか」
予想していたことではあったが、やはりはっとして振り返ると、まさに十人いたら十人すべての日本人がその職業を『執事』と答えてしまうであろう老行員が、穏やかな微笑を浮かべて立っている。
黒い光沢のある尖った獣耳に、銀の筋が極めて上品に混じっていた。
ーーさて、結果から言えば、やはり両替は不可であった。
執事系行員は、私が差し出したお金、つまり一万円札、五千円札、千円札、或いは百円玉や十円玉を白手袋に覆われた手のひらの上で検分し、丁寧にそれを一時借り受けたい旨を申し出、私の了承に一礼し、そして「確認してまいります」と言葉を続けるや煙のような滑らかな動きでその姿をどこかへ消してしまった。
一連の動きは非の打ち所なく洗練されているように感じられ、そのような扱われ方に慣れていない私はほとんど条件反射の「はい」の連続でその場を凌いだのみである。
数分後、帰ってきた行員は、彼の言うところの流通前貨幣、つまり私の日本円を取り扱うことができないことを深く頭を下げて詫びた。
まるで針金で形を整えているかのようにゆるやかにカーブしたまま微動だにしない黒い尻尾が、折った腰の奥に優雅に立っている。顔を上げて一呼吸置くと、彼は当たり前のように、私の顔に書いてあったであろう疑問に答え始めた。曰くーー
流通前貨幣とは、この銀行が認知し、顧客が両替や預金、証券の購入などの取引に利用する前段階にある貨幣、早い話が貨幣とは認められていない「貨幣と思しきもの」を差す言葉である。
これからこの日本円が市井で活発に利用され、彼ら銀行側がこの紙切れと銅、アルミニウムをお金であると認めてはじめて、めでたく日本円はこの場所で貨幣と呼ばれる資格を得るようだ。
さらに彼は「紙幣」と言うものはこの世界に、いや、この銀行の扱う流通貨幣には存在しないこと、私の出した三枚のお札は大変に品質が高いものであることを神妙な顔で付け加えた。
流通前貨幣。まあ、そりゃそうだと思った。
これは私がお金だと一人で主張しているだけで、全くもってその証拠などないのである。
そうである以上、私はこの十中八九、大手機関であろうメガバンク・プルシャン・フローが認識していない、更には恐らく彼らが見た事のない言語ーーだが読める。行員も花屋同様、自然に「日本銀行券」を「ニホンギンコウケン」と読んだーーが書かれた薄く小さな塊をわざわざ財布に入れて大事そうに持ち歩いている不可思議な男だと見なされても文句は言えない。……そう、見なされているだろうか?
分からなかった。
行員は、一切の困惑や疑念を私に気取らせはしない。
彼はその後、私の持つ日本円を、絵に描かせて欲しいと言った。
どうやら他の街の支店と情報を共有し、市場の貨幣流通状況の調査の一助とするようだ。何となく、本当に何となくではあるが、それは無駄なことのように思えた。
とは言え理性で考えれば私と同じような境遇の人間がいないとも限らないと判断する他なく、そうであるならばそれは私にとっても良い結果を齎す可能性がある。
ふと気になって、日本円が流通前貨幣であることは納得したが、ではこの貨幣を持ち込んだ人が今まで他にあったかと聞いてみた。
……返って来たのは八の字の眉と「お答えしかねます」の染み入るような詫びの言葉だけであった。
銀行はやはりしっかりとしている。仕方がない。
もう一度日本円を預け、先程より長い時間待ち、無事、絵の中に保管されたそれらの返却を受け、私は銀行を出て傘を広げた。
単位、円、読み方、エン、記号、¥。材質、銅、アルミニウム、ニッケルーーこれらの金属類の名は通じているのだろうか? 会話の手応えというものがさっぱり存在しなかったーー、そして紙。これはイチ円、こちらはジュウ円。数え方に捻りはなく、一円が十枚で十円一枚、十円が十枚で百円一枚、エトセトラ、エトセトラ。
答えられる限りの質問には答えたが、特に材質に関してはろくに返事が出来なかった。
深く考えたこともない。使用されているインクの原料など、知らん……