竜騎手と風使い
<フライト>
パスポートとビザはいつも身に着けていた。イエローカードだけはナップザックに入れているが、別に失くしてもかまわない。
衣類も現金も、なくなったら、用立てればいい。
生まれ故郷に一つだけ感謝したことは、このパスポートとビザである。世界中どこでも通じる。そういう意味では最強だ。今は大国の一部に併呑されて、一部の自治権を行使するのみの生まれ故郷。
サプライヤーとメーカーを繋げる彼の職種は、専ら「レミング」の愛称で親しまれる。旅鼠の事だが、冬眠をせず、単独で行動する様子を見立ててそう呼んだ。
自分の足で歩いて、各地のサプライヤーとメーカー需要や地域の価格差などの情報を仕入れ、流通の段取りをつけるのである。
自らの利益のみを追求せず、社会の幸せを願うのが祖父の教えだった。それを忠実に守り、今のタカの懐具合は良かった。
だから、ドラゴンのチケットがちょっと高くても、正規のキャリアーで移動する気になったのだ。そこで彼は、思わぬ幸運を手にした。
「トリプルPの第七世代だ」思わず声に出していた。
トリプルPの第七世代は遷音速で巡航できる高速体である。旅客を運ぶ目的としては、速度よりも効率を重視した8Eクラスより珍しい。
ローンチカスタマーのTREX社が数体発注していた事ぐらいしか知られていない。新素材の鱗を用いる胴体や新機軸を採用した心臓など多くの新設計で、開発は難航したらしい。量産型に比べて本体重量は軽く、飛行音もない。
ロールアウトされ、TREX社の乗員慣熟飛行は完了している。だが決まった就航路線もなく、専らチャーター便としての運行だった。
無駄の無いナローボディ。白地に青のロゴマーク。個体番号は569。
TREX社が尚寧工場で引き渡しを受けた初号機だ。
569号は騎首を巡らせ、出発ターミナルの乗客を睥睨した。その眼光に、タカは身震いした。
タカは逸る気持ちを落ち着かせて、沖止めの騎体を眺めた。
オープンスポットはタラップを使って乗降する。自らのシートにいち早くたどり着いて、ハンドキャリーを収納した。
最初のアナウンスで、当初予定の騎材はバランスシステムが不調で、騎材を変更して運行致しますという。
タカは自らの幸運が信じられなかった。だが、生まれた土地のアミニズムのおかげで、これから先どこかで貧乏くじを引くのではないかとも思う。
ロールアウトしてすぐの新品だが、搭乗クラスは3等のスタンダード。平均的なサービスでシートピッチも広くはない。隣が巨漢だと圧迫感があるつくりだ。
隣人が「失礼」と声を掛けてきた。
眩暈がした。
これ以上の不運なんてあるのか。
目鼻立ちの整った美人。艶やかな黒髪のショートカット。くせのないホワイトフローラルの香り。
スラックスに濃色のジャケットを羽織っている。彼女は優雅に一礼してタカと前方シートの隙間をすり抜け、自らの席に収まった。
騎内での四時間、彼女のことを意識せずに過ごせるだろうか。
騎内放送が入った。国際言語だ。予定を五分遅れて滑走路に向かっているという。
クルーが前方から順番にシートベルトのチェックをしている。
タカの席からは窓は透かして見るしかない。躯体は微震し、慣性力によって乗客はシートに背を押し付けられた。
人々は昔から空を飛ぶことにあこがれていた。
実際にはじめて空を飛んだのはPiersonーPatrick&Percy。ピアソンのパトリックとパーシー。トリプルPを立ち上げた。
当時の乗客は政治家や外交官。そして自らの命を賭けた冒険家。レミングの前身は彼らだ。
その後国家主導による旅客輸送が広がり、需要が増大する。新しい騎材の開発が活発に行われ、より速く快適な騎体が作られた。そして航法の開発によって進歩し、航続性能が大幅に改善された。
技術の進歩とそれに伴う運賃の低下によって、空の旅は一般市民でも利用できるようになった。国際間を結ぶような大洋航路は旅客輸送の主役だ。
新たなドラゴンの開発は、燃料消費率や、機内の快適性と安全性に向けられている。基本的なデザインや仕組みは半世紀近く根本的には変わらない。ドラゴンの開発は収斂期なのだ。
その中での新機軸がトリプルPの第七世代である。ジャイロが一新されて、デリケートなバランスコントロールができる。
上昇を終えて、騎体は安定飛行に入った。タカは嬉々としてフライトログに書き込んでいる。乗組員飛行日誌ではない。個人の楽しみだ。
新造騎PPP569、初搭乗!十時五十五分離陸、十一時十分滑空に移る。
騎体の揺れは大きい。手元が揺れる。
「怖くありませんか?」
タカの手元を見て、隣席の美人が話しかけてきた。
「なぜ?」
「最新型なんて、いつ墜落するかわからないでしょう」
「本当の有事は、彼や彼女らを見ればわかります」
タカはそう言って、クルーに目をやった。
客室乗務員は接客のプロフェッショナルで、ドラゴンの事も叩き込まれている。
「僕はドラゴンのファンです。よく使うし」
タカは言った。フライトアクシデントは命が助かるケースが多い。乗務員は緊急事態をよく知っている。緊迫した事態は座っているが、今彼らは優雅な手つきで配茶業務をしている。
タカと隣人は、軽く会釈をして熱いお茶をもらった。大麦を煎じたお茶で、香ばしい。水分を取ることが、一番簡単な急性肺血栓塞栓症の予防である。
「ドラゴンを旅客運営する会社の入社試験は厳しいものです。彼らを信用しないで、どうしてここに座っていられますか?」
隣人は頬を紅潮させて俯いた。タカは、しまった、と思った。おしゃべりが過ぎたのだ。恥をかかせてしまったのだ。
「とは言え、静かなフライトのほうがいいですよね」
タカは取り繕った。自らに念じる。
脳梁膝から前頭前野、運動領域、視覚野・・・感覚が広がる。
南北方向に長い寒冷前線がある。ドラゴンは西から東に渡る。寒冷前線の西側で下降気流、東側では上昇気流。今、ドラゴンは下降気流に押さえつけられて、寒冷前線を通過すると上昇気流に押し上げられる。
タカは気圧に手を加えて、水平シアを是正した。騎体の翼が穏やかになる。
ウインドシア。風の状態をコントロールする。
「わあ」小さく、驚愕の声があがった。客室乗務員の一人も、失礼を忘れてタカをまじまじと見ている。
「別に珍しくもないでしょう」
航空会社に魔法使いの雇用も多い。空港会社にはウインドプロファイラが常駐している。
「ドップラーソーダーならありますけど」
ウインドプロファイラは自由大気の風を操る。その中でそれほど魔力はないが雇用率が高いのが、ドップラーソーダーである。彼らは、自らの上下のみ、風向と風速の垂直分布のみ力が及ぶ。旅客用ドラゴンの騎長に必須の条件だ。
いずれにしてもドラゴンの航路に手を加える程の力量ではない。
「ちょっとした特技ですよ」
タカはそういって、お茶のおかわりを貰いにギャレーに立った。
機内食が配られる時間になって、タカはあれ、と思った。フライトクルーがメニューの選択肢を与えなかったのである。問答無用で残ったものを出す。隣人は頂戴します、と丁寧に声をかけた。
デッドヘッドクルーだ。タカは、ようやくその正体に気が付いた。隣人は小さく笑って、自己紹介をした。
デッドヘッドクルーは一般乗客に対して混乱を与えないように搭乗時には制服を着用しない。緊急時、運航乗務員とともに補助や手伝いを行う。運航乗務員の場合は操縦操作などの補助を行う。
知らない事とは言え、恥ずかしい思いをした。ましてや自分の力を見せつけるなんて!
「この路線をよく使われるのですか」
「ええ。商用で」
「どんなお勤めを?」
タカはちょっと考えてから返答した。
「レミングです。今は、錫をティナに輸入して加工するルートを開拓しています」
一部地域の、一次産業を最も尊しとする教えからすれば、レミングは蔑みの標的となる。だから一瞬躊躇したのだ。
ツグミは驚愕を隠さずに言った。「レミング!てっきり、どこかの航空会社かと」
「ドラゴンのファンですけど、勤めはしていません」
「じゃあ、この席を立ったらもうお別れですね。残念だわ」
タカはすっとその表情を見て、真意を推し量った。不愉快ではない好奇の目。
「残念ですが」
小さい溜息。
タカは自らの名刺をテーブルに滑らせた。
「レミングは伝統的にフリーランスですが、今はティナ周辺でお仕事をいただいています。ほんの些細な物でも買い付けだったらご協力しますよ。貴方だったら、手数料はいりません」
隣人は笑った。はにかむ様子に好感を持った。
ドラゴンのみならず、飛ぶ生き物の滑空は使うエネルギーがずっと少ない。
ドラゴンのフライトは大半の場合、帆翔によって高度を、滑空によって距離をかせぎ、比較的低空を飛行し、海では波頭すれすれの所を飛ぶ。
ドラゴンは彼らを目的地へ運ぶ。王国ティナの首都バッグである。
<ティナ>
グランドスタッフから申し送りがあって、ツグミはスペシャルクラスの案内を引き受けた。国政の重鎮だ。三人の秘書を筆頭に、複数の取り巻きを連れて現れた彼は、威厳のある表情である。
ツグミが一礼して、案内に立つと、その彼の表情が一変した。まさか、という。
「お久しぶりです」
カガネ親王は唐突に呵呵大笑した。
「ツグミ!あの小さな子が!随分立派になったなあ」
彼は小さな子供にするように両手でツグミの頬を撫でた。
劣勢であった紛争を終わらせ、調停によって国土の一部を返還させるに至った辣腕である。それが、姪を可愛がる叔父の本性を示した。
周囲は驚愕している。
彼女は職務として、叔父を王族専用のラウンジから騎体に案内した。
スペシャルクラスはありとあらゆる面で優遇されている。騎体前部の専用コンパートメントから入る。専用のカーペット。専用のトイレ。羽毛布団と就寝用のシーツ、ナイトガウン。特別に選ばれたアメニティ。そして専門の訓練を受けた客室乗務員だ。ツグミは卒のない接客をしている。
彼らが乗り込んで、暫くすると離陸となった。安定飛行に入るとすぐカガネが彼女を呼んだ。
「美人になったな」
ツグミは笑う。職務として振舞うか、姪として振舞うか迷った。
「叔父さんも、お変わりなく」
「いやいや老いたものだ。さっきのお前を見て、姉様がいると思った。お前のお母上はもう他界して何年だろうか?ずいぶん昔だが、昨日の様だ」
「私が五歳の時です。もう、十二年も経ちました」
彼は大きく嘆息した。それから、彼女にワインリストの中からお勧めを持ってくるように言った。
「お食事はいかがします?」
「お任せするよ。選ぶのも、億劫なのでね」
食事も数十種類のラインナップがある専用のメニューだ。ツグミは昔の叔父を思い出そうとした。今の彼は、疲れのにじみ出る初老の男性だった。
悩んだ。
死んだ母と叔父は仲が良かった。彼はツグミを我が子と同列に扱った。思い出すのは、従妹たちと遊んだ事だ。
彼女は意を決して、3等のスタンダードで提供される、庶民的な食べ物を温めた。昔、母が拵えてくれた、炊いた米とシチューである。ツグミは煮込まれて柔らかくなった茄子と鶏肉が好きだった。それと、天然果汁を薄めたソフトドリンク。
手にした食事を見て、取り巻き達はぎょっとしている。
「このフライトでお前に会えたのが非常にうれしいよ」
親王は穏やかな微笑みを浮かべた。
フライトは、まだ行程の三割程度だ。
スペシャルクラスのシートはシートと通路の間に仕切りがあり、個室に近い空間である。彼は秘書を呼び、複数の座席の仕切りを閉じさせて小さな空間を作り出した。
お前もここで聞いていなさい。
ツグミは固唾をのんだ。母が死んだ日、親族の中で叔父に言われた言葉。声のトーンも同じだ。
「一か月後、儂はカ国に駐在大使として赴く」
いずれカ国とス・フラは開戦するだろう。カ国は本国領の通過を求めて南部を侵攻する見通しだ。無駄な血を流さない為に、『カ国軍隊の国領域通過に関する協定』を締結しなければならない。
これは我が国に戦争協力を求める意味合いを持つ。だが、せめて国の為に少しでも有意なものを見つけたい。儂は過去に割譲した領土の回復に協力する様、協定に追記させるつもりだ。
我が国の政府はカ国に協力的姿勢であるはずだ。この協定が少しでも未来の為になるよう、尽力するつもりだ。
集中が必要で、不規則な勤務である。疲れは自覚していた。
ドラゴンはもうそろそろ着陸態勢に入るだろう。
叔父もその周囲も自らのシートで寝入っている。彼らはカ国に行き、きっと必要なことをやり遂げるはずだ。
ツグミは王家の外戚としての高度な教育と公式な場でのプロトコールを身に着けていた。しかし原則は一般人である。自らの希望と努力で就職した。
父の生家はドラゴンの心臓部メーカー、一般庶民である。ツグミは何れ祖父母を手伝うつもりで、国元のフラッグキャリアーに勤めた。
その仕事が、こんな切なくいものになるとは思わなかった。
ドラゴンは、雲海を縫って目的地に赴く。
もうすぐ、叔父ともお別れである。
ツグミは叔父が寝起きに濃いお茶を飲むのを思い出した。黄金色の米を、籾のまま焦がさない様に炒り付け、煎じた物だ。ギャレーにあったはずだ。
それを拵えてコップに注いだころには、数人が目を覚ましていた。活動の音がする。あくび、関節音、おなら。
初老の親王も起きていた。彼は窓の朝焼けを眺めている。声をかけ、お茶を渡す。
「ありがとう」
ツグミは一礼して踵を返した。「待ちなさい」
「はい」
白髪が混じる髪を撫でつけ、彼は片手でポケットの財布から硬貨を出した。
ツグミはちょっと笑った。子供に御駄賃を上げるような仕草だ。
「よく見なさい」
彼の顔は厳めしい。
ツグミの目が見開いた。硬貨ではなく、螺子の頭である。
「お前の父が教えてくれた」
ス・フラのレミングが用立てた螺子は、必ずトルクで頭がつぶれる。手を出しなさい。
ツグミは困惑を隠さないで手のひらを出した。彼はその手に一条のねじを持たせた。
彼は小声で諭した。殆どの螺子は切削で作られる。だが、カ国から来たあるレミングが持ち込んだのはこっちだ。鍛造法で互換性に優れたねじが大量に作られる。
カ国のレミングはインディコムの技術を引き継ぐ者がいるらしい。
「お前もこの国の安否の為に、覚えておきなさい」
叔父は適温に冷めたお茶を飲んだ。「おいしいよ」
着陸態勢のアナウンスが入る。ツグミは慌ててギャレーに戻った。
<レミング>
ドラゴンの躯体を持ち上げる力は主翼の面積に比例するが、持ち上げなければならない重量は構造材の体積に比例する。
面積は寸法の2乗で増えるが、体積は3乗で増える。大きくなればなるほどその差を克服する技術が必要になる。
先だっての晩秋、カ・ティナ攻守同盟条約が締結された。そして冬が来た。
冬とはいっても南国である。暑気が幾らか和らぎ、驟雨がなくなるだけだ。
タカは定宿の薄いマットレスで目を覚ました。
暑い。のどが渇いている。
タカは起き上がって脚をおろし、ゲストハウスの二段ベッドに腰かけた。水差しの水を飲む。
安価な素泊まりの宿。小さな窓。その先には、日よけの下に様々な露店が出ている。
彼は窓を開けて風を呼んだ。涼風ではないが、少しましになる。
昨夜、旧知のレミング同士で飲み会があった。方々から聞こえてくる暗い話に、皆うな垂れた。レミングですら冬眠が必要となる時代になってしまうかもしれないと友人が言った。
この国は二か国の植民地に囲まれた小国だ。その宗主国、カ国とス・フラは大国だ。ティナに比べたら巨大なドラゴンである。
ティナはいつ餌食になるかわからない。だが、二頭のドラゴンは互いに威嚇しあっている。
「この国は南国独特の狡猾さがある」そうはならないさ、とタカは天井に向かって話しかけた。
ティナはドラゴンに囲まれて震えあがっている素振りを見せ、実は共食いさせようと画策している。
大きいドラゴン!面積と体積の差を乗りこえる事が出来た国だ。
空腹を感じた。シャツを着てパスポートとビザをポケットに押し込む。それからズボンに財布を括りつけた。
サラ通りは東西に伸びる。東側には青果や衣類の、西側には飲食店が集まっている。
「おはよう」
「もう昼だよ。どうしたんだい?働き者」
朝粥の屋台を切り盛りするおばちゃんは、タカを良く知っている。
彼は指定席の様に、炉端のスツールに腰かけた。運がいい。こういった場は、無くなり次第終了の構えが多い。今日は売れ行きが悪いのだろうか。
「はいよ」
小ぶりの丼とレンゲを手渡された。砕いた米をごく柔らかくなるまで煮込んで、肉団子や細切り生姜が乗っている物だ。
「仕込みを増やしたんだよ。ここのところ景気が良くてね」
おばちゃんは歯を見せて笑う。
「いい話じゃないか」
「さて、戦争になるようだったら考え物だけどねえ」
「水族館のお客さんも来ているんだろう?」
「ああ、偶にね」
消化が良い食べ物は、喉の通りもよい。あっという間に平らげて支払いをした。
席を立って、ぶらぶらと歩く。
ここからティックプラザまで近い。部品を扱う販売店の密集地である。
様々な部品が一つずつ購入できる。実験用、商品開発としての部品調達に利用しやすい。機器製作、工作や工事に必要と思われるものは、およそなんでも揃う。
鉱物を取り扱う彼にはティックプラザは飯のタネだ。
ティックプラザでは旅行者に付きまとう呼び込みが目立つ。タカは慣れているのでそういう輩を回避する術を得ていた。少し顔面を風で煽ってやると、彼らは目をつぶる。そこを通り抜けるのだ。
入り口からの直線ですぐの一画は、劣悪な商品を扱う店が集中している。雰囲気の悪さは最高潮だ。
タカは朝粥屋台のおばちゃんと同じように、何人かの売り子と世間話をした。
戦争をにおわせる内容が多い。だが、仕事になりそうな話もある。
「空の手社が開発にレミングを探しているって」
「空の手社?」
空の窓社は小型騎を手掛ける。
「農業振興策で、国が補助金を出すらしい」
売り子のレンは学はないが世知に長けている。文盲だが、聞いた話は忘れない。それも詳細を正確に記憶していた。
「またぞろ戦争の話かと思った」
「人手がなくちゃ戦争はできない。人手を集めるには食料さ」
小型騎産業の需要は大きい。多数のメーカーが供給を行っている。農業騎としての導入が多い為だ。
広大な耕地の、農薬散布作業を省力化する農業騎は複数の能力が求められる。
舗装されていない飛行場からも離着陸する。肥料や種子を積む騎体の重量に耐えられる強力な心臓。低速・超低空でも運動性を確保しなければならない。
加えて、農業従事者は整備士ではない。簡便な整備性が求められる。
ユーザーは農業地、整備拠点から離れた場所で運用するのである。信頼性は最重要だ。空の窓社は複翼騎の専用設計に定評があった。
タカは強い興味を感じた。
「倒産寸前だぜ」
「かまうもんか」
契約が終われば、それまでの立場である。企業の存続まで責任を負わない。
タカは空の手社に電話をする為に宿に帰った。
この日の夕刻、タカはカ国がス・フラに対して正式に宣戦布告した事を知った。
タカは考える。
この戦争中、カ・ティナとの濃厚な外交関係はインフレに大きな問題となるだろう。
一方でカ国は重要な輸出品目をス・フラの独占から解放するだろう。
更にティナは国立銀行を設置する見通しだ。そして世界銀行からティナの経済を分離させるだろう。
<空の窓社>
「仕事がある。母さんの墓参りはお前ひとりで行きなさい」
はっきりした答えに、ツグミは諦めざるをえなかった。彼は続ける。
大人しくこの会社に勤めればいいもの。
強い物言いだ。父とは言え、さすがにツグミも怯んだ。
「せっかくの水清祭のお休みです」
「ス・フラに水清祭はない。ティナが休みでも、彼らの取引所は開いている」
複合商業施設の一画、背後には羽目殺しの窓。その光景は、都市を見降ろす。
人はオーク材の重厚なデスクの前に立った。彼は海の波社のトップである。鋭い眼光を放つ、浅黒い肌に斑の白髪の持ち主だ。ここは彼のオフィスである。
「わかりました。お時間を取らせまして」
カガネの一族と祖父母にはお前から伝えるように、と言われる。
ツグミは頷くしかなかった。久しぶりの父との面会で、強い疲労を感じる。早く帰りたいと思った。
空気が悪い。こんな時、あのウインドシアはどんな風を起こすのだろう?
「カガネはカ国に行ったのか」
「はい。私がお送りいたしました」
「ドラゴンでか?」
「TREX社のPPTです」
「懐かしいな。空の手社で使っていたメーターは同じだな」
ツグミは嬉しくなって数回点頭した。
「お爺さんの軸流型圧縮機も健在です」
彼は空気の滞る部屋で、遠くを眺めた。
「生体機巧は不完全な存在だ」
ウミウは続けた。生き物でもなく、機械でもない。ましてやドラゴンには生物学的なモデルもない。
ツグミは押し黙った。昔の彼は、きっとそんなことを言わなかっただろう。彼女は祖父母への手土産を考える事に専念した。
「まあ、素晴しいクグルア!」
祖母が感嘆の声を上げた。彼女はツグミの頬に両掌を当て、孫娘と塩に喜びを表した。
ティナには山の塩と海の塩がある。山の塩はヨウ素が含まれていないから、海の塩は喜ばれた。
クグルアは良質の塩田から取れる大粒の天日塩である。美容にも使えるが、薬用としての要素が強い。
祖父母は老人らしい弱々しさを感じない。実の息子とは疎遠だが、孫の来訪を心から喜んでいた。
水清祭は新年のお祝いであるが、同時に故人を偲ぶのも徳とされている。一家が集い、お互いに清めの水を掛けるのだ。
とはいえ、王室の末席ともなると、公的行事に出席せざるを得ない。だからこの時期、叔父一家とは疎遠だった。
母は王室の出身だった。父とは同窓で、還俗して庶民の席に入った。とは言え、父の空の窓社は有数の企業だった。
祖父が言った。部屋は掃除してあるよ。お婆さんが食事を支度するまで休んでいなさい。
「ありがとう」
ツグミは久しぶりの自室に足を踏み入れて、「痛い!」と足の甲を思いっきり敷居にぶつけた。
忘れていた。郷里の作りである。
敷居が跨ぐほど高く設えているのは、這っている赤子の為である。ティナの農村部では大体こんな造りだ。
窓を開ける。祖母とお手伝いのマヤが、楽しそうに炊事をする音が聞こえる。
午後二時半。夕刻までにお供えの屯食ができるか不安になった。
窓から叫ぶ。
「おばあちゃん、手伝おうか?」
「貴方はお勝手が下手でしょ。かえって邪魔ね」
「あっそう」
母も家政は下手だった。
なぜ父はこの実家が嫌いなのだろう?
空の手社の様な小型騎メーカーは、家族的で手造りの部分が多い家内制手工業の側面を持つ。
家業と家庭が結びついていて、以前はもっと人がいたのだが、今はその気配が消えて久しい。
かつてはハウスキーパーを筆頭に複数の使用人、そしてガヴァネスを抱えていた。
だが、マヤは働き者だ。文句も言わずパーラーの仕事をしていた。
ツグミとその祖父母が、仕来り通り夕刻にお参りを済ませて帰宅すると、客間に人が通されていた。家族にではなく、会社のお客様ですという。
祖父が言った。ああ、ツグミ、悪いけど、応対してくれないか。わしはお参りの水を捧げてくるから。
「お電話を頂いていたレミングです」
彼は丁寧に一礼した。
「水清のお休みを知らずお伺いしまして、失礼いたします。タカと申します」
二人は互いの顔を見て声を上げた。
「あっ」「えっ」
それから次の言葉が出ない。すぐ空の手社の老社長が来て、二人の旧知に驚いたのである。
<買い付け>
レミングを単なる商人だと表記するには、大分語弊がある。
彼らは専門性の高い知識と、各個の得意分野、そして相互ネットワークが持分だ。
今、タカは郊外に向かっている。空の手社の商用だ。
人々の移動手段は車両やドラゴンだけではない。ティナも首都バッグから放射状に延びる鉄道がある。
鉄道は長距離となるが、人々の生活に必要な軌道も要所に敷設されていた。とはいえそれを曳くのは牛や馬である。
タカはのんびり牛の曳く荷台に揺られていた。地方の村民が錫をアクセサリーにしていると聞きつけて、どんなものかと見に行くつもりである。
錫石か砂錫か木錫か、彼らが加工しているものもよくわからない。仕事は重工業にばかりである。だが、装飾品に興味がそそられなくもない。
自身の審美眼に自信はない。だが、鉱物の事はよく知っている。装飾の手技が良いなと思えば、それは有料で別のレミングに渡す算段だった。
もし、本当に良いものがあれば、自分の財布で賄うつもりでいる。バングルかペンダントが良い。
彼らのマーケットは船上である。売り手は専ら女性だ。子供もいる。
マーケットで買い物がしたければ、船頭と船を雇わなくてはいけない。背後に河川を控えた家に住む、家族と掛け合って船を出してもらう算段が付いた。価格交渉は難航したが、妥当な線で落ち着いた。
若干の苛立ちを抱えて手漕ぎのボートに乗り込む。櫂を一家の父親が取った。田舎独特の鷹揚な面持ちである。
細い河川から出ると、多数の船の「雑踏」が現れた。
「やあ大将、いかが?」
小さな船に乗った少年と目が合った。
器用に櫂を操り、竹の先につけた鉤で船を引きよせてくる。船上に七輪を置いて大ぶりの川蝦を焼いていた。鉈で縦に割り、甲羅を下にしている。肉厚でふっくらした身が、炭火であぶられて音を立てていた。
タカは流涎しそうになった。何と言う芳香!屋台で食べた粥は、もう消化してしまった。
「うまそうだな」
「さっき弟が取って来たんだよ。なかなかこんな新鮮な蝦は食べられないだろう」
田舎の村落では、タカは悪目立ちする容姿だ。法外な値段を言ったら買うまいと決めて、値段を聞く。
「十枚でいいよ」
タカは仰け反った。安い。
だが少年はその反応を、買ってくれない様子と判断したらしい。やっぱり八枚でいいよ、と言う。
「いや、十枚分包んでくれ」
少年は喜んで蝦を椰子の葉で包んだ。何某かの仮果にソースをたっぷり注ぎ、別に手渡してくる。
熱いエビの背を割って、口に運ぶ。うまい!
少年は鉤を離し、男が先に進めた。
「いい生活だな」
「バッグにないものはあるか?」
「目新しいものはない」
そしてサラ通りの露店の方が垢ぬけてはいる。
「だが、蝦はうまいな」
都会の品々と違って、素材は天然だ。それはそれで、他のレミングに話せる内容である。
タカは時間をかけずに河川上の市場を一巡させ、男の家の裏に戻った。鳥肉の串焼きと柑橘の果汁を発酵させたワインも賄った。両方に舌鼓を打って、機嫌は良い。支払いも些か気前が良くなる。
「ありがとよ、旦那」
「ついでに教えてくれ。かわいい女の子に贈り物をするのだったら、何がいい?」
男が笑顔で言った。
「蝦じゃダメだな。花がいい」
「バッグに持って帰るんだ。花は枯れてしまう」
「母ちゃんは喜ぶがね。」
「いい奥さんだな」
「糸は仕事だ。花は思いやりだ」
「糸は仕事?」
「ボートマーケットの生地は有名だよ。俺のかみさんもな、よく機を織るよ」
タカは声を立てて笑った。男はきょとんとしている。
「その仕事を見せてくれ!」
ドラゴンの飛翔は、ソアリングが主である。滑空のことだ。黎明期は可能な限り長く空中に止まっていることが目標だが、昨今は技術水準が向上して速さも考慮の対象となる。
腕利きのウインドプロファイラやドップラーソーダーは、最良の気象予報者である。利用する上昇気流の強さの平均値が、与えられた航路の巡航速度に決定的な影響力を持つからだ。
南からの微風。香気と共に。
タカは設計のデスクの下で目を覚ました。周囲は朝焼けで赤紅に染まっている。
工房の床である。最初は座したまま寝てしまって、あまりの腰痛に目を覚まし、再度床で寝た。
冷たい土間。
翼を張り終わって、今日はテスト飛行だ。
良い風が吹いている。
「そういえば」とツグミが言った。設計はしても、騎乗されたことはないわね。
「えっ」
タカは身を起こした。目をこすりあける。ずるずるとデスクの下から這い出した。
ツグミ。笑っている。
朝の弱弱しい陽光に照らされた顔は、どこか神々しい。
「徹夜だったのね」
「うかつに寝てしまっただけだ」
タカも笑い返した。
「失礼。顔を洗ってくる」
「新任のレミング、あなたが作った新鋭騎にご招待したいの」顔を洗ったら、パイロットスーツに着替えていただけません?
「操縦できるのかい?」
「あなたほど優秀な風は使えないけど、人並みに飛ばすことはできるわ」
その騎体の特異な外観。二本の尾翼。主翼下の小翼。大容量のエンジン。変則的な構成だ。
工房の大きい軽い二枚扉を割って、二人は試作騎を目の前の農業用地に導いた。
農業騎LFT第二十六世代、騎体ナンバーは9458。
顔つきは穏やかだ。全体としてとして丸っこいフォルムである。
単座機でも複数人と荷物を乗せる騎体である。ツグミは軽やかに9458を空に飛び立たせた。
試験的なフライトだ。タカはウインドシアとして非常に優秀な事を証明した。
新しい騎体は、以前に比べて竜曲線を多用した。滑らかなで強靭。
タカの頭にあったのは、郷里の乾漆造である。麻布を漆で張り重ねた物だ。これを再現して、繊維と金属の複合を可能にした。
いまや、騎体は以前の半分の重量だ。
夜明けが来る。朝の凪ぎは、力不足でも扱いやすい。だが、「わあ!」あまりの離陸の早さに歓声が起きた。
タカも驚きを隠さない。何て軽い騎体だろう!
タカは貨物スペースで騎体が上昇する浮遊感を味わっていた。
大型騎より、よっぽどいい性能だ。
彼は操縦席に歩み寄って、ピットから外を眺めた。
最高速度は非常に低いが、低速飛行が可能なだけあって、失速速度も低い。
タカは笑った。路面を走る車体にすら追い抜かれてしまう。
彼は叫んだ。
「こいつ楽しいな!」
「何が!」
「こんな鈍足乗った事がない!」
ツグミは背中に熱を感じた。人の体温。
タカが操縦席越しに腕を伸ばして肩を抱いた。心拍数が跳ね上がる。
「こいつの燃費を良くして、速く遠く飛ばしてみよう!」
農業騎の機体強度は高い。超低空飛行時での障害物への衝突が考慮される為だ。
タカは力を加えた。追い風だ。
騎体が吼える。
操縦室の与圧構造は農薬の侵入を防ぐためだが、これが功を奏した。農業騎にはあり得ないアクロバティックで、彼らは空に遊んだ。
空の手社の老夫婦は、工場からごく近い自宅の窓からアクロバティックな農業騎を眺めていた。
思い出すのは、過去の麗しい記憶。
二十年前!あの美しい王族の嫁は、息子と笑いながら農業騎を操っていた。あの時は、空の窓社を名乗っていた。
軽騎メーカーのビッグスリー、その一つである小型単発機の最大手。最初、空の窓社の創立者はスタントパイロットとして自作飛行機で曲技飛行ショーを行っていた。
空の窓社は単葉にこだわり、レミングと設計で意見対立した。追い打ちをかけるように金融恐慌があり、解散した。
その五年後、ウミウが出資して会社は再開。その後暫くウミウが舵取りしていた。
生産した小型騎の訴訟に辟易した。必ずしも空の窓社に過失責任があったわけではなかった。だが、賠償保険料は急増した。
ウミウは商業上のメリットはないと判断して、会社を売却したのである。
そして残ったのが今の空の手社である。大地に種を蒔く会社だ。
その後、ウミウはその資本で別の会社を設立した。今は多数のレミングを擁して売り上げを出している。
息子は水清祭の前に妻の墓前を弔っていった。レミングという存在に目を向けたのは、彼の助言があってからである。
<水族館>
待ち合わせは地下鉄と地上路線のアクセス域だった。半地下で地上と地下の両方の振動を吸収する区画である。
空の手社との契約の開始まで、一週間の余裕があった。ティナでは暑い夏の新年の、前後一週間は休みが続く。だがティナに資本がない企業や、観光地は営業している。
普段混雑している地域の観光をするには、いい時分である。
タカは待っていることが好きだった。そして人生の要所要所で、きっと待つのだろうと思う。
タカは自らが一般的なライフイベントを経験できない事を自覚している。通俗的な婚約や一般的な結婚はできないし、興味もない。
そういった物に取って代わって、今は仕事と夢がある。浅はかな少年だったが、何れ現実にしてやろうと思う。
彼は行き交う人々を見た。脳が奇妙に彼らを認識する。「水族館だな」
「今日行くところが?」
心臓が跳ね上がった。血圧と心拍数が急激に上昇するのがわかる。
振りかぶると、ツグミがいた。
今日のツグミはベージュのスラックスに、ネイビーの襯衣である。スラックスと同系色の、麻のジャケットを手に持っている。地味になり過ぎない出で立ちだ。風通しの良い素材をうまく着こなすのは、暑気の厳しい地域の常である。
「びっくりした」
「ティナの人間が全て時間にルーズだと限らないよ。でも、さっき来たばっかり」
タカは腕時計を見た。秒針は午前十時ちょうどから三十秒過ぎている。彼は肩を竦めた。
「来てくれてうれしいよ」
「すっぽかされると思った?」
「いや、ティナの人間は多くが時間にルーズだけど、約束事は守るから」
ツグミは小さく笑った。そう、それがこの国なの。
「で、さっきの水族館の真意は?」
「目的があってゆく人たちが、回遊水槽みたいだなって思ったんだ」
「察しかねる内容だけど」
不審そうである。タカは言った。自販機は海中のモニュメント、待っている人が海底に身をひそめて生息するタイプ、ゆっくり歩く人は甲殻類、速足の人が遊泳するモンスター。
ツグミは笑った。「せっかくなら、本当の水族館に行きましょう」
彼女は颯爽と歩きだした。
自身の勤務の合間を縫って、ツグミが連絡をくれたのは、夏場の長期休暇のときである。
王族や富裕層は挙って秘書に赴く。その先はア浜で、石の波打ち際の浜という意味だ。首都からフライトで一時間。双頭の岬を持つ東側、治安も穏やかな地域である。
そのア浜から短い一報を貰った。フライトの合間にバッグに逗留するという。
お返しにタカも自身の定宿の番地を教えた。田舎の空の手社から、久々に垢を落としに舞い戻っていたのである。
高層ビル群に囲まれている屋上の水族館で、通常の水族館に比べると面積は狭い。その分フロアを回りやすく、見やすい。体力を消費しないのが利点である。
フロア案内を見る。色とりどりの魚。無骨な蟹。海獣たち。案内に従って歩いた。
海産生物の運動効率は体や細胞の大きさに関与する。ドラゴンの流体力学の基本は揚力だが、彼らの流体力学ではレイノルズ数をよく使う。
レイノルズ数が1より大きい対象では、慣性による作用が支配的である。高速で移動している種は流線形で慣性によりスムースに進む。
レイノルズ数が1より小さいものは、大体目で見えない小さな生き物である。粘性力の作用で動く。
「こっちが一番ドラゴンに近いかな?」
シーサーペントの中でもメジャーな2つの種が展示されていた。モーガウルは上下に、チェッシーは横に身をくねらせて泳ぐ。それぞれ生息域が違う。
海水域の生態ピラミッドの最高次消費者だ。ドラゴンとは進化系統上最も近縁の関係で、ともに主竜類に属する。背面の角質化した丈夫な鱗、長い吻、扁平な長い尾を持つ。
リーフアクアリウムのフロアは、他のゾーンよりポンプ音が大きい。サンゴ礁の生物は、清浄な海水を好む。濾過能力が高い特殊な設備だった。
深海に生息するサンゴの類は驚くほど長寿である。タカは思い立って聞いた。
「年はいくつなの?ああ、不躾でごめん」
「気にしないよ。十七歳」
タカは驚愕した。若い!「あなただって随分若く見えるけど」
ツグミは続けた。「基礎教育が十二歳までで、その後四年間は専門教育。殆どは基礎教育の半ばで勤めに出るの。貧しい国だから」
タカは貧しいという言葉を否定した。
「豊かだよ。人が。羨ましい」
その後、言葉に詰まった。
サンゴに群れる扁平で、黄色い小さい魚達を眺めた。イエロー・シー・ピクシー類。定時で飼育員がレクチャーしている。強力な毒を内部に持つという。
「見た目によらないわね」
ツグミは嘆息した。タカは「毒にも色々な形がある」と返した。
屋上には海獣たちのエリアである。哺乳類らしい、表情のある類だ。
二人はオープンエアーのカフェテリアで、遠目に彼らを見ながらノンアルコールカクテルを頼んだ。
「タカはずっとレミングなの?」
タカは運ばれてきた飲み物を受け取り、片方をツグミに手渡す。
「それしか選択肢がなかったんだ」
喉が渇いていたらしい。一気に飲み干す。
「あれだけの才能があって?」
二層になった飲み物をマドラーでゆっくり攪拌し、ストローを差した。
「国が合併される前に親に連れられて外地に出たんだ。修学ビザでね。で、帰ろうにも国がないから、レミングになるしかなかった」
「国が合併?」
「<インディコム>だよ」
グラスの氷が音を立ててはぜた。
ツグミは空唾を呑んだ。タカの謎が溶解し、攪拌し、均一になった。
「<インディコム>、極東の、小さな大国」
「もうないって。今はインディゴ地域ってなっている」
ツグミは飲み物に口をつけた。
国土面積の少ない島嶼国だった。工業と技術に秀でていた。難解で特殊な言語を使う。そして、「滅びた国」
「その通り」
ツグミも飲み物を飲み干した。一向に喉の渇きが治まらない。
タカの風貌は、どこの国の人にも見えるし、どこの国の人にも見えない。肌は白い黄色で、髪の毛は黒。瞳は褐色。
ツグミは白い肌とブロンドの持ち主である。鼻梁も高い。連合と言われる小規模国家の集合体の一部としては典型的な風貌だ。
<インディコム>は独特の風貌の単一民族だった。だから、どこの国にも溶け込むのは難しい。ツグミは、タカはどこかで別の血が入っているのだろうと推した。
今、彼らは海鳥たちのエリアにいる。スフェニシケード類。空を飛ばない彼らは、悠然と水面に漂う。
タカが小さく言った。「かわいいな」
水中では俊敏だが、陸上では緩慢で笑いを誘う。一瞬、転んだかと思うと、腹部でスライドして水に飛び込む。
彼らの動きを眺めつつ通路を行くと、出口である。
のんびり階段を使おう。タカがツグミの手を取った。
タカと話していると落ち着く。なんでだろう?
さあな。
返答は素っ気ない。ツグミは笑う。小気味いい。
タカは、何かになりたかったことってある?
そりゃ、今でも。
何に?
なりたいっていうか、目標かな。
少し間。
何に?
探し物をしている。真竜。昔見たんだ
ツグミは嗚咽を漏らした。真竜は生体機巧であるドラゴンのオリジナルだ。全てのドラゴンは、この真竜のコピーであると言ってよい。
真竜、か。
子供の頃母が連れて行ってくれた公園にいた。嘘みたいだけど。
別に嘘なんて思ってない。レミングなのもそのせい?
半分は。
残りの半分は?
好きだから。この生活が。
<離宮不祥事件>
国王から信任の厚いカガネはただ一つの課題に直面していた。カ国とス・フラ。
狡猾に立ち回ることが必要だ。
先日、カ国の同盟国が一堂に会した首脳会議があった。秩序や親睦を主とする共同宣言が採択されている。
国王は優秀だ。これにはカガネの従兄弟が赴いた。
そしてもう一つ。カ国がス・フラに劣勢になった場合の布石である。
ティナの高級将校の間には派閥争いがある。精神と伝統文化を重んじる王道派、経済と軍事を優先させる国力派だ。
王道派と国力派は複雑に関係している。彼は国力派に強い懸念を抱いていた。真摯に国を憂える一方、急進的なのである。
タカは吃驚する人間から電信を受け取った。ティックプラザのレンである
注意しろ、陰謀があるぞ。
彼が農業騎に仕掛けた生地は、新機軸となりつつある。農業騎に必要な点をクリアして有り余る。彼は更に農薬頒布用のシステムに着手していた。
人のカンに頼らず、風を読み安定的に散布させる技術である。その電化に必要な試作機のパーツを、レンに頼んだ。その折の話である。
松の木離宮は、夏場を快適に過ごす工夫に満ちている。
バッグからドラゴンで半時間、港湾の風は外洋の冷風を適度に運ぶ。水清祭の後、バッグは過剰な暑気と不定期な雷雨に見舞われる。それを倦んで、王族は松の木離宮で執政する。随行員は多数で、その中には王の正室も側室も含まれた。
離宮は白亜でモダンな作りだ。アシンメトリでもある。概ね正門から入って右手が王族のスペースで、右手が従者のものである。それぞれにお祈り用の祠があり、ツグミは左右同時間をかけてお参りした。清めの水も同割りにする。
水清祭で貰った休みは、うっかり全て父方の祖父母の元で過ごしてしまった。今日は母方の祖母を訪ねる弾丸の日程である。
門番と、ツグミを知る何人かの王妃の侍従が、彼女を見間違えた。
「外にお勤めに出られて、お変わりになった」と口をそろえて言う。だが、それだけではないことをツグミは自覚していた。
農業騎LFT第二十七世代、騎体ナンバーは9460。
タカが難しい港湾の風をコントロールして、彼女を近郊まで送ってくれた。テストフライトの名目である。舗装されていない飛行場からも離着陸するのが農業騎だが、農道離着陸場の事もあるという。
「最近、小型騎で付加価値の高い農産物を消費地へ空輸する計画が農業省にある。早めに参入したいのさ」
そうタカが言った。
離宮の庭園は緑が美しい。芝は丁寧に刈り込まれ、その上を色とりどりの鳥類、あるいはオオトカゲが闊歩する。飼っているわけではない。
離宮には居住の為の五つのパビリオンがある。それぞれ繊細、豪華、伝統的、大陸中央部風、大陸西部風と様式が分けれている。ツグミはその中で一番経費のかからない「伝統」に足を向けた。
人造湖に僅かにせり出した東屋に、祖母がいた。彼女は表情をあまり動かさないが、歓迎されているのは確かである。ただ、事前に申し送った時間より聊か早く着いたので、支度がおぼつかなかった様子だ。
ツグミは緊張しながら伝統に則って礼をした。
「ようこそ」
年をとって、毅然とした声に聊か柔和さが足されたようである。彼女はツグミをその場に待たせて、黄色の伽藍から清めの水を持ち出した。そして手ずからそれをツグミの肩に滴らせる。
「お正月に伺えず、大変失礼いたしました」
ツグミはちょっとほっとした表情を見せた。老婆は相変わらず無表情だ。
「お勤めとはそういうものですよ。カガネ様にもあなたのお仕事ぶりは聞いています」
「駐在大使としてカ国にお出でになる時、お会い致しました」
「無事にお勤めなさっているようですよ。さあ、今日は一緒に国王陛下の晩餐に御呼ばれになりましょう」
複数の后は、意外と質素な暮らしぶりであるが、国王に物申せば絢爛豪華な食膳も用意できた。当然、彼も着いてくるわけだが。
「お婆様、申し訳ございません」
ツグミはそんな堅苦しいのは御免だと思った。年をとって深読みに長けた祖母は、表情も変えずに言う。
「残念なこと」
祖母は孫娘を涼しい席に座らせて、お茶を振舞った。
突然、庭園の鳥が飛び立った。オオトカゲたちも音を立てて湖に飛び込む。
銃声。追って、叫び声。
白い塗り壁の屋敷から次女が一人飛び出してきた。それを見て、ツグミは只ならない事を悟る。
「何事か!」
祖母が鋭く声を放った。老齢を感じさせない強さだ。ツグミは身を強張らせた。
老婆はぐっとツグミの手首を持って立たせた。そして二人で東屋から伽藍の中に隠れた。
タカはこの上なく空の窓社を気に入っていた。かつてはレミングと意見対立したという社も、最近ではかなり彼を受け入れている。ツグミと会っていてももそうだが、単純に楽しい、と思う。
舗装されていない飛行場からも離着陸するのが農業騎だが、昨今では農道離着陸場の計画も農業省で取り沙汰されている。
小型騎で付加価値の高い農産物を消費地へ空輸する。将来的には旅客輸送まで視野に入れた計画である。
農道離着陸場は、全てが同一規格、有視界飛行方式のみ対応する計画だ。農道を拡張するだけだから、地形や横風の影響を受け易い。
力のあるドップラーソーダーなら安全性が高いが、空港と違いウインドプロファイラの必置規定はない。
さて、騎体のどこから良くしようか。タカは9460に語った。微風を当てて、主翼をはためかせる。
「きなくさい?」
タカはぎょっとした。風は離宮から吹いてくる。
ツグミは祖母の手をぎゅっと握って息を潜めていた。礼拝用の祠は玉蜀黍を模した作りで、人が隠れるには手狭である。その中で、銃声と悲鳴を聞く。
「国王様を良く思わない人かしら」
ツグミは小声で言った。背中に汗が伝う。
「いいえ。昨今のティナ情勢を慮る人々ですよ」
カ国とス・フラの間で憂国の念を強くも持つ国力派が、王宮より手薄なこの松の木離宮を狙ったとしても不思議はない。
はっと息を呑んだ。入り口に人がいる!
「出て来い!」
祖母がぎゅっとツグミの頭を抱いた。ああ、おばあちゃん。
「出て来い!」
火薬のはじける、鋭い音。発砲したのだ。
二人とも怪我はない。威嚇だ。
「撃たないと、約束するなら出ます!」
ツグミは吃驚した。祖母の強い、激しい声。母を思い出す。
祖母はツグミに言った。胸を張って出ましょう。お前のお母様が、お守り下さるように。
祠の外には三人の武装した兵士がいた。いずれもティナの正規の軍服だ。
彼らは二人を見てにやりと笑った。
「まだ誰か隠れていないか?」
「いないわ」
「本当かどうか」
彼らは祠に爆弾を投げ入れる。多くの侍従と后にお参りされていた祠は、轟音と共に崩れ落ちた。
耳鳴りがする。恐怖と爆発音のせいだろうか。
ツグミが発達した積乱雲に気づいたのは気圧が下がるのを感じたせいだ。
雲の輪郭がハッキリとしている。暗い雲底。旅客騎の巡航高度の二倍の高さ。
周囲はすすり泣く人、怪我をした人、死体。祖母は二本足で立っているが、ツグミがいなければ倒れそうである。
怒号と銃声がひっきりなしに響く。二人は、庭園の草地に引き立てられていた。複数の人がいて、その中に初老の国王も見えた。
かつての<インディコム神話>で、霹靂は黄泉の軍勢を率いる神である。黄泉の主宰神は森羅万象の神々を生んだ。八人の雷神、大雷神、火雷神、黒雷神、裂雷神、若雷神、土雷神、鳴雷神、伏雷神だ。
タカは父の語り草を思い出した。だが、世界各地の神話に雷の神は現れる。ティナの神話はよく知らないが、きっといるのだろう。
気圧傾度力と遠心力が均衡して低気圧となる。
スーパーセル。そして上昇気流と下降気流の領域をコントロールする。
タカは気流の渦を発達させる。上昇気流と結びつけ、成長させた。
タカの胸のうちに怒りと恐怖が入り交じる。きっと霹靂神もこんな気持ちだったのだろう。
気圧変化はわずか数十秒間で起こった。それも急激な低下だ。突風の一種だが、甚大な被害をもたらす。
ツグミの目に、激しい空気の渦巻が映った。
大きな黒い積乱雲の底から漏斗状に雲が垂れ下がる。巻き上がる砂塵。
ランドスパウト。
雷を伴っている。
急速に発達した積乱雲に、皆目を奪われた。
武器を持っているものも、負傷したもの、膝が震えている。
誰かが、神の怒りに触れた、と言った。
ツグミは積乱雲の恐ろしさを、脳内で紐解いた。暗記したクルーマニュアル。積乱雲の内部では気流は大きく乱れ、急激な気温の上昇で空気密度が急激に変動し、場合によってはドラゴンは停止する。
不思議な事に、気持ちが落ち着いてくる。
ツグミは辺りを見回して言った。皆が口にできなかった事実だ。
「竜巻よ!」
漏斗状の空気に流れ。大地のものが舞い上がる。枝や建物の破片。黄色い屋根瓦。
「逃げなきゃ!」
人々は手のものを放り出して、離宮の南北に走り出した。正門と後門に殺到する。
ツグミはその中で祖母の手を取り、祖父を探した。国王は泰然と草の上に座っていた。三名名の従者が腰を抜かしている。
「おじいちゃん!」
老人は顔を上げた。ああ、この人は天地に祈りを捧げていたのだと気づいた。
「あれは神の使いじゃないの」
周りは理解できないだろう。
だが、ツグミには確かに見えた。
竜巻を誘導するドラゴン。農業騎の9460。
主翼に乗って仁王立ちに、タカの姿が見えた。
<ドラゴン>
フライト中、上空で緊急ミーティングを行う事になった。
ドップラーソーダーの騎長が、クルーを呼び集めるように指示を出した。ツグミは緊張を隠して声を出した。
数ヶ月前の将校の事件を思い出す。だが、大丈夫だ。私はドラゴンのクルーとして勤務しているのだから。
「昨日、旧ヘンサウ地域上空で軍事演習がありました」
チーフパーサーとしてツグミは落ち着いて言った。
「そのせいでロンコボに緊急着陸したバッグ行きのフライトがあります」
声が僅かに震えていた。しかし、それに気づいたのは騎長だけだったけど。
「お客様がコロンボでお待ちです」
パーサーは八名。中距離フライトとしては標準の人員数である。十六の瞳と全て見て、ツグミは続けた。
到着次第、そのまま心塔へ飛ぶことを了承してくれますか?
八つの笑顔。お客様向けじゃない。トラブルを歓迎する顔だ。
もちろん、お客さまのためなら、と皆言うのだけど。快く了承する。そして、通常のフライトを終えて、そのまま心塔へ向かった。
その後スケジュールが打って変わった。バッグでスタンバイする。いつ、どこへ呼ばれるか全く分からない。滞在中も外出禁止である。
元々ロンコボに十二時間滞在する予定だった。だからその分の荷物しかない。不安はある。どのくらい待つのだろう。
救いはバッグのホテルの高品質な環境である。客室には十分な調度と設備があり、通信網の状況もよい。
「十分じゃないか」
応答した声は眠そうだった。時差は六時間。ティナはまだ夕暮れ時だ。
「寝てた?」
「昼寝」
えーっと声が出た。「疲れてたの?」
「うん」まだ声はくぐもっている。大きなあくびが聞こえた。それから、関節が鳴る音。
朝着のフライトだったんだけど、関税の書類が終わらなくて、イミグレーションの前で拵えてたんだと言う。そのまま会社に昼過ぎに帰って来た。
「七十二時間働いていたわけ」
「残業代がつかないのが残念だね」
フリーランスの痛手である。結果は自己の努力に依存する。それで、体を酷使せざるを得ない。
「今どこ?一緒に夕飯食べよう。俺会社だけど、バッグにいるなら会いたいや」
ツグミは嬉しく思った。同時に、強い悲しさも。
「残念」
「ティナじゃないのか?」
「スタンバイ」
察しがいい男である。少なく見積もっても十日は会えないな、と言われた。確かにそうだ。
途中で鼻声になった。寂しさが募る。そもそも、なんで私は業務に忠実でなければならないのだろう。緊急のスタンバイを拒否する事も出来たのだ。
涙があふれてくる。
タカが優しく慰めてくれた。
フライトや訓練だけではなく、待つのも重要だ。不測の事態で帰ってこれない、急な体調不良のためにスタンバイが必要なのだ。
「帰ってくるのを待ってるよ」
カ国とス・フラは、ティナを間に停戦協定を結んだ。ティナは大国と大国の間で相変わらず上手にやりくりしている。だが着実にドラゴンと穀倉は育つ。そしてその立地から広域空路線網の中心となりつつあった。
数ヶ月前の国力派による襲撃事件は、今は離宮不祥事件と呼ばれていた。
その日のうちすぐバッグの首脳部に蹶起の連絡が入り、反乱部隊鎮圧のための軍隊が向かった。彼らは離宮の惨状に直面したが、無事の国王と皇后らに安堵した。
結局国王は呵呵と大笑するばかりである。侍従はこぞって真竜が雷神と風神を伴って現れたと言う。唯、「伝統の宮」のみが違うことを言った。
「降嫁した娘を思い出しましたよ」
真竜、あるいは雷神と風神であるタカは今、プロトタイプドラゴン・ミニ農業用を開発中だ。彼は国王らに隠蔽されて、普段の生活を送っている。
「水族館もいいけどな!」
タカはそう言って風を呼ぶ。
試作型の小型機に、騎手はいらない。ウインドプロファイラなり、ドップラーソーダーなり、風使いがいれば農業騎としての役目を果たす。種も農薬も撒けるのだ。しかし、操作がセンシブルなのが難点だ。
「俺だけが飛ばせるドラゴンじゃ意味がない」
彼はまた、ドラゴンに没頭している。
スタンバイの憂き目から、ロンコボとティナを渡りあるったツグミは、疲労困憊だった。
休憩時間で眠ってはいる。だが、熟睡できない。そしてドラゴンがもうすぐティナにタッチダウンするのだと思うと、より眠りが浅くなった。
迎えにきていく、と伝言があった。送り主は会社の人間ではない。
心が浮き立つ。
空港の正面、送迎の車両がひっきりなしに訪れるロータリーを横切り、短時間駐車場に行くまでに空間がある。空港の設計者は機能美と洗練を追及したが、あくまでも空港の構内の作りである。駐車場の設置は自治体が行った。
中途半端な場は、自治体から委託された高齢者や知的障害者の作業の場となった。緑陰とベンチに殆どの旅行者は気づかない。空と地上の激しい往来を尻目に、花卉が可憐に咲き誇っていた。
タカとツグミはベンチに座り、手持ちのボトルの飲料を開けた。
「不思議な空間だな」
「今日は作業が終わったの。いつも一杯の人が手入れしていたわ」
斜陽が差し込む。白い花々が赤銅色に染まった。
「きれいだな」
タカから声が漏れた。ツグミは返せないでいる。暫く、無言の時間が過ぎた。
夕方に着く便は多い。着陸の順番待ちで、一騎のドラゴンが上空を旋回しているのが見えた。
「あなたはこの間の調印の立役者だわ」
「そういう事になっているらしいね。普通の事をしただけだけど」
「叔父から、裁判所に告訴して正式な戸籍を作る方法を教えてくれたわ」
タカは声に出さずに笑った。
「その手は考えていなかったなあ!」
陽気な声である。ツグミは、そのまま本題を口にした。ティナで暮らさない?
「ごめん」
タカは素直に詫びた。
彼女が求めているものも、彼は決して与える気がないのである。多くのレミングは安住の地として故郷に帰る。だが、彼は帰る場がなく、代わりも求めない。
自身の末路は目に見えている。きっと、孤独に老いて一人で死ぬのだろう。しかし今はそれを考えているときではない。今の自身は若く、体力があり、望むことができるのだ。
「帰ってくるよ。俺も、君と同じように」
ツグミは奥歯を噛んで鼻にこみ上げるものを堪えた。予想していた言葉だ。だが、その衝撃を躱し切れない。
全身に力が入る。両眼から、大粒の涙が零れた。一緒にいたい。
一陣の涼風と共に夕闇が近づく。タカは、ツグミの肩を抱いた。