紅に染まるはいとをかし
今は昔、帝の元に侍る更衣がいた。彼女の誇りは大内裏で働く一所懸命な弟である。
名を定真。皇居外郭の警備を司る右兵衛府に勤務する右兵衛佐である。
○
外廊下である簀子縁や、棟と棟とを繋ぐ渡殿、その間を流れていく風がひんやりと肌を撫でるようになった頃。右兵衛佐定真は、仕事帰りに友人である左兵衛佐兼俊と共に姉の元を訪れていた。兼俊は「妹に頼まれたことがある」と言って最初乗り気ではなかったが、定真の用事が更衣の事だと聞いて嬉々としてくっ付いてきた。宮中の奥深くに大事にされている更衣の姿を拝む機会は滅多にないからである。
しかし、更衣の居室に近付くにつれて兼俊の表情は曇る。約束の品を妹に届けられなかったらどうしよう、と悩んでいるということが長い付き合いの定真にはよく分かった。この友人は妹の事を溺愛しており、仮に帝と妹が戦うことになれば全てを敵にしても妹を守るであろうと定真は語る。兼俊のような者のことを千年のちの世ではシスコンと呼ぶのだが、それは彼らの知ったところではない。
「ありがとう。来てくれて嬉しいわ」
定真の姉である梅壺の更衣が優しい微笑を浮かべた。落栗の襲ねが微かな衣擦れの音を立てる。更衣は兼俊に目を留めると、おかしなものを目にしたように口元を歪めた。夏の終わり頃を機に宮中において兼俊を知らない者はほぼいなくなり、元より知っている者は皆一様にこのうえなく微妙な顔をするようになったのである。理由は夏に都を騒がせた「山明かり」という怪異なのだが、それはまた別の話である。
「左兵衛佐様は大変ね。今でも訊ねる者は多いのでしょう、あの夜について」
「私はあまり覚えていないんですけどね」
「葉っぱのお布団で寝ていたんでしょう? もしかして物の怪に誑かされたのではなくて?」
「更衣様、もうその話はやめてください。山で寝ていたなんて恥ずかしくて……」
兼俊が頭を掻きながら言うと、更衣は穏やかに微笑んで「ごめんなさいね」と謝罪した。姉と友人のやり取りを見守っていた定真は、その一瞬の間を見逃さずに切り出す。
「姉上、洛外では山々が燃えるように赤く染まっています。見に行きませんか」
弟の誘いを受けて更衣の顔が晴れ渡った空のように輝いた。しかし、それはすぐに暗い雲に覆われてしまう。定真はこうなることが分かっていた。後宮に住まう姉が自由に出かけることのできない身であるのは当然で、例え弟の誘いであっても喜んで付いて行くようなことはできない。それでも、幼い頃のように姉と出掛けたいという気持ちが出てしまうのだ。更衣もそれを理解しているからこそ怒るようなことはしないし、嬉しいという気持ちは嘘ではない。
その後は他愛もない世間話などをして、定真と兼俊は梅壺を後にした。
簀子縁を歩いていると奥の方から束帯姿の公達が大きく手を振りながら近付いてきた。梅壺の向こうは雷の壺であり、現在帝の寵愛を我が物とする雷の壺の更衣が住んでいる。帝が日常を過ごす清涼殿から離れた雷の壺に更衣が留まっているのは多くの者が疑問に思うことであるが、更衣の生家には何やら事情があるらしいのでおそらくそれが原因なのであろう。大股でやって来るのは更衣の甥である頭左大弁宣忠である。
「おぅい! 其処の者達」
定真と兼俊は宣忠に頭を下げる。
「顔を上げてくれ」
促されて二人は顔を上げる。
「御前達は確か、梅壺の更衣の弟とその友人だろ。更衣様に会ってたのか」
「はい、姉に。左大弁様もですか」
そうだ、と言いかけて宣忠は口籠る。雷の壺の方を見遣ったので二人もその視線を追う。すると、風流を人間にしたかのような無駄のない優雅な動きで簀子縁を歩いてくる者がいた。通りすがりの女房達が黄色い悲鳴を上げて逃げるように立ち去って行く。宣忠のことを若干睨みながらやって来るのは、同じく雷の壺の更衣の甥である中納言業久だ。宣忠と業久は父親が同胞である。中納言の登場に定真と兼俊は慌てて頭を下げ直す。
業久は二人には目もくれず、懐から取り出した檜扇で宣忠を殴った。ずれ落ちそうになる冠を押さえながら宣忠は手で応戦するが、業久の攻撃は止まらない。
「このアホ。アホ。アホの極みめ」
「やめろやめろ。何だよもう」
「もう少し場をわきまえろ。何ださっきの歩き方は。アホなのか。後宮であのようにどかどかどかどかと」
「分かったから殴るのやめろ、このアホ」
阿呆の往来を見て、先程とは別の女房が黄色い声を上げる。あてなれば何をしていてもよいのだろうか。定真と兼俊は困惑したまま頭左大弁と中納言のやり取りを見守る。容赦なく宣忠を殴り続けていた業久がようやく二人の存在に気が付き手を止めた。自らも恥じるべき姿を晒していたことに気が付いてわざとらしく咳ばらいをし、檜扇をしまう。
「何だ、汝らは。今の事は忘れろ。行くぞ宣忠」
業久は束帯の裾の部分を引き摺りながら簀子縁を進んでいく。面倒臭そうに返事をした宣忠は定真と兼俊に向き直り、形の良い口を歪めた。
「御前達、どちらかこの後暇な奴はいないか。付き合って欲しいんだ」
曰く、兄である右近衛大将に頼まれて紅葉狩りの下見に行くのだそうだ。折角だから誰かと紅葉を見たいのだと宣忠は言う。定真は兼俊の方を向くが、兼俊はそろそろと視線を逸らした。
「恐れながら左大弁様。私は妹と約束をしておりますゆえ」
「じゃあ御前でいいや。一緒に来てくれるか、右兵衛佐」
笑顔の左大弁に言われて断れるはずがない。半ば圧力である。妹の名前を叫びながら足早に去って行った兼俊を見送って、定真は宣忠と共に歩き出した。内裏を出て、大内裏の朱雀門へ行くと中納言業久が腕組をしながら立っていた。実に偉そうであるが実際に偉いのだから定真は何も言えない。業久はちらりと定真を見て首を傾げる。冠から垂れる纓が揺れる。
「ふむ、此奴は」
「紅葉狩りの下見に一緒に来てもらおうと思ってな。本当は隆光を誘いたかったんだが、用事があるみたいで」
隆光とは宣忠の部下であり親友の左中弁のことである。ころころと表情の変わる宣忠はツンとすました様子の業久に詰め寄る。
「御前もどうだよ。一緒に来るか」
「私はアホ弟に付き合って寺まで行かねばならない。全く、仏だなんだとそんなものにうつつを抜かして……。くだらない……」
「じゃあここで義頼を待ってるのか」
「うむ」
「それじゃ、お先に失礼」
業久に向かって宣忠はにこやかに手を振るが、業久は目に入っていないとでも言うかのように小さく欠伸をしている。宮中で人気の中納言と左大弁はいとこ同士。性格は全く違うようだが不思議と仲がいい。太政官の建物内を一緒に歩いていることも多いため、女官はもちろん、彼らに憧れる元服前の少年の視線も集める。そんな二人の共通点は送られてくる恋文を全て破り捨てることである。心に決めた秘密の妹、すなわち恋人がいるのではという噂があるが真偽は不明だ。
朱雀門を出て少し歩くと牛車が停めてあった。礼儀正しそうな牛飼童が定真に頭を下げる。二人が乗り込むと、車輪を軋ませながらゆっくり牛車が動き始めた。
宣忠が物見窓を開けて外を眺めている。吹き込む風に纓が揺れる。
「右兵衛佐、風は感じるものなんだよ。風の流れと書いて風流と言うのだから、雅とは風を感じることだと私は思う。業久にはくだらないと笑われてしまったけどな」
牛車は東へ進む。しばらく揺られていると、目的地へ着いたのか牛車が停まった。牛飼童に合図され、二人は降車する。
目の前の景色に定真は息を呑む。女房装束を広げたような美しい赤と黄がそこにあった。さすがは藤原北家というべきか、紅葉狩りに選ぶ場所も実に素晴らしいものであるようだ。宣忠は満足気に頷き、歩みを進める。慌てて定真も後を追う。
紅葉の赤は寂しい冬が近づいてきたことを知らせる物悲しいものである。散りゆく葉は命が消えていく様のようで、明るく楽しく眺めることはできないと言う者も少なくない。しかし、宣忠、そして業久の家は毎年のように洛外の山奥まで出かけるらしい。定真は綺麗な色であれば何であれ楽しめるだろうと思っており、そのため姉を誘うようなことをしたのである。
「ここはいいな。父上もお喜びになるだろう。今年はここで決まりだな」
頭上の赤を見上げて宣忠が言う。つられて定真も空を見上げた。青い空に細い雲が揺れ、赤が一枚落ちてきた。
「叔母上にも見せることができればな」
「私も姉に見せたいです」
「持って帰るか」
「そうですね。……え!?」
宣忠はいたずら童のように笑いながら草を掻き分け奥へ奥へと進んでいく。定真のように直衣であればまだよいものの、宣忠は束帯である。正装をどこかに引っ掛けて破きでもすれば大変だ。「左大弁様」と叫びながら後を追う。
勝ち誇ったような笑い声が聞こえたのでそちらへ向かうと、頭左大弁宣忠ともあろう者が童のように木によじ登っているではないか。ひときわ赤くなっている枝に手を伸ばし手折ろうとしているようだが、あと少しで届いていない。苦笑しながら近付いた定真は木が生えている場所を確認して小さく悲鳴を上げた。美しく染まった木は崖っぷちに生えているのである。足が滑ったり、乗っている枝が折れたりすれば宣忠は崖の下へ落ちてしまう。しかし本人は気が付いていないのか無我夢中で手を伸ばしている。
危ないですよ、と声を掛けようとした定真の横を何かが通り過ぎた。黒い何かだと思ったがよく見えなかった。
「そこの人間、おやめなさい」
やや舌足らずな声がして、いつの間にか水干姿の童が立っていた。驚いて振り向いた宣忠が足を滑らせる。枝に掴まろうとするが、その手が枝を捉えることはなかった。
「あなや」
「左大弁様っ」
定真は駆け出した。しかし間に合いそうにない。山を歩き回って汚れた束帯が崖の向こうへ消えていく。もしもこのことにより宣忠が命を落とすようなことにでもなれば、責め立てられるのは定真である。しかし悲しいかな、運動不足の貴族が勢いよく走ることなどできるはずもなく、大きな袂を振り振りしているだけで思ったより速さが出ない。そんな定真の横を再び何かが通り過ぎた。今度は分かった。先程からいる童である。
角髪を結った幼子が出せるはずのない速さで崖に駆け寄り、左手で近くの草を、右手で宣忠の手を取った。童の駆け抜けた後には黒い羽根が落ちている。唖然として様子を見ていた定真は童に呼ばれて我に返る。
「そこの者、黙って立っていないで手伝いなさい。このままではわたし諸共落ちてしまいます」
定真は童と共に宣忠を引っ張り上げる。さぞ肝を冷やされたであろう、と思いながら定真が様子を窺うと、宣忠は「驚いたな」と目を丸くしているだけである。
「鶴のように飛ぶことができればよかったんだけどなぁ」
「危ないでしょう左大弁様」
「すまんすまん」
水干の童が小さな手で宣忠を叩いた。幼いながらに形の良い顔は、怒っているのか眉間に皺が寄せられている。
「人の子、先程はわたしの声で驚かせてしまったようで大変申し訳ありません。しかし、木の枝を手折ろうなど、そのような所業見過ごすわけには参りません。見るだけなら良しとしますが、折っちゃ駄目です」
童の瞳は夜の闇を塗り込めて作った漆のように黒く、じっと見ていると吸い込まれてしまいそうだ。紫苑色の水干の袂に三つ足の鳥が描かれている。童の瞳と同じく黒い鳥はおそらく烏であろう。
「そうだな、木も生き物だものな」
「そうです。彼が痛がります」
まるで木に意思でもあるかのように童は言う。
「彼はわたしが植えた苗ですから」
「冗談だろ。今いくつなんだ」
童は慌てた様子で「祖父が植えました」と言い直す。しかし童が木を見る目付きは長年の友を見るもののようであり、幼い外見とは不釣り合いに時間の流れを宿している。舌足らずに言葉を紡いでいるのに、まるで神祇官に長年勤めている者が話しているようである。
宣忠は束帯に付いた汚れを軽く払い落として立ち上がり、「助けてくれてありがとな」と童を撫でる。その時ばかりは見た目相応の反応をして、童は嬉しそうに目を細めた。
「落ちている葉を拾っていくのはいいだろうか」
「はい、それなら構いません。散ってなお楽しんでいただけるのであれば木も喜ぶでしょう」
わたしも手伝いましょうか、と言った童が動きを止めて空を見上げる。つられて定真が空を見ると、烏が数羽旋回していた。何かを探しているのか、それとも誰かを待っているのか、同じ場所をうそうそとしている。
「申し訳ありません、わたしはそろそろ行かなくては。それでは」
一礼をして童が山の奥の方へ消えて行った。幼子が一人で山奥に何の用があるのだろう。それに危なくはないのだろうか。定真は疑問に思ったが、宣忠に促されて落葉拾いを開始する。どこか不思議な雰囲気の子であったし、おそらく大丈夫だろう。家族で来ていて奥に親がいるのかもしれない。そう思うことにした。
翌日、定真は再び梅壺を訪れた。落ちてなお美しく赤に染まっている葉を数枚見せると更衣は感嘆した。桔梗の襲ねに赤が映える。
「左大弁様が枝を折ろうと仰ったのですが、不思議な子供に諭されましてね」
「神仏のお使いかもしれないわ。あそこ、近くに寺があるでしょう」
定真は童の取ったおかしな行動を思い出し、更衣に伝える。いつの間にか現れて、ものすごい速さで移動した。それに、木を植えたと。
「姉上の仰る通りかもしれません」
「あはれ、いとをかし」
本当は自分も木の枝の一本くらい持ち帰ろうと思っていたのだと言うと、更衣は気持ちだけで十分だと言って微笑んだ。美しい景色を見せてあげたいという弟の気持ちがとても嬉しいのだと更衣は語る。そして、彼の届けてくれた数枚の葉だけでも季節を感じることができるのだと。
後宮で暮らす梅壺の更衣の誇りは大切な弟である。不自由なく暮らす彼女に与えられない自由を彼は届けてくれる。
ちょっと冷えますねえ、と風よけの几帳の位置を調節する定真の姿を、梅壺の更衣は温かな目で見守っていた。