龍の国JIPANG ~剣の巫女~6
その夜、朱花は全く寝付けなかった。あの黒髪の男が気になって仕方がなかった。第二皇子と名乗った金色の瞳の青年。左目のまわりのウロコのような青い皮膚はいったい何なのだろうか。なぜ自分はそれを「龍の目」と思ったか。そして、口づけ…。
激しいようで甘く、優しい口づけ。かぁっと頬が熱くなってくるのがわかった。
(忘れなきゃ…!あんなの、失礼にもほどがある!)
かき消すように頭を振り、朱花は寝台から起き上がった。となりには姉の紅香が眠っている。起こさないよう注意を払いながら、そっと部屋を出た。
長い廊下にはろうそくが点々と設置しあり、炎がなんとか歩ける程度足元を照らしてくれていた。朱花は廊下を抜け、中庭へ出た。雲が陰っており、月明りをさえぎっていた。朱花はろうそく台を手に取った。
(お前の身体は火に焼かれることはなかった。)
ふと鷽皇子の言葉が浮かんできた。朱花はろうそくの小さな炎に手を近づけた。
「熱くない…」
朱花が炎をつまむように触ると、炎は急に勢いを増し、赤々と燃えだした。
(不思議…。火が全然怖くないわ。)
朱花は隣のろうそく台にも近寄り、手をかざしてみた。すると、また炎が勢いを増し、強く燃えだした。
(なに、これ…⁉)
また次のろうそく台に駆け寄り、手をかざしてみた。また炎が強くなった。
(すごい…)
朱花はおもしろくなり、また次のろうそく台へ、そのまた次のろうそく台へと、まるで炎で遊んでいるかのように駆け回った。その様子を赤い髪の青年が見ていた。鷽皇子だ。
「お前、いつのまに火を操れるようになったのだ⁉」
「あ、鷽様…!」
朱花はさっと頭をさげて鷽皇子に礼を取った。
「わかりません。私の身体が燃えなかったというので、試してみたら炎が強くなって…。私も自分でびっくりしています。」
「では、あの火を強くしてみせよ。」
鷽はさらに向こうのろうそく台を指さした。朱花はろうそく台に駆け寄らず、じっと見つめて念を送ってみた。すると、手を触れずとも、炎が勢いを増し、二人を照らしだした。朱花は鷽皇子の顔がはっきり見え、なんだか恥ずかしくなった。鷽はゆっくりと朱花に歩み寄り、手を取った。
「火功を扱えるのは火の龍の加護のおかげだ。ほら、見よ。私も…」
と、鷽が朱花の手の平に自分のを重ねた。ボウ、と赤い炎が起こり、二人の手を包んだ。
「鷽様も火が熱くないのですか?」
「私は幼い頃からだ。お前も知っているはず。」
「え…?」
朱花の記憶の中にはなかった。鷽はしばらく不思議そうに朱花を見つめていたが、突然朱花の手をぐっと引き寄せた。
「あっ…!」
朱花は鷽がとった行動にどうしてよいのかわからなかた。鷽は炎に包まれた朱花の手に唇を寄せて、優しく口づけたのだった。
「お前は私が知っている朱花ではないな。まるで別人だ…。」
「別人…?」
「お前はもう、私の後を追いかけていた幼き少女ではないのだな…。」
鷽は朱花の手から唇を離すと、そっと肩を抱きしめた。碧い瞳にじっと見つめられ、朱花は胸が高鳴った。これはおそらく自分とは別の感情なのだろう、と思った。だが、ひどく恋しく、その逞しい腕に包まれたい、と思った。
「私…」
と言いかけた、そのときである。
「どうしたのです、こんな夜更けに。眠れないのですか?」
突然女性の声がし、二人は互いに我に返った。振り返ると、そこには姉の紅香の姿があった。
「あ、姉上…」
「夜風は体に良くないわ。あなたは心気が弱いのだから。さあ、部屋へ戻りましょう。」
紅香は朱花に上着をかけ、肩を掴んだ。ぐっと力を込められたような気がした。紅香は夫に鋭い視線を向けると、一礼し、朱花を部屋へと連れていった。鷽は困ったようにため息をつき、二人を見送った。
「何度言ったらわかるの⁉」
鷽の姿が見えないところまで来ると、紅香は突然厳しい口調で言った。
「お前のその無邪気さが皇子を惑わすのです!」
「あ、あの…?」
朱花は紅香の変貌に戸惑った。そこには優しい姉の姿はなかった。怒りに体を震わせている、嫉妬に狂った女の姿だ。朱花は体が硬直した。その瞬間、朱花の中に眠っていた記憶が呼び起こされるのを感じた。
(なぜなの⁉ なぜお前が龍に選ばれるの⁉ どうして…⁉)
紅香の心の叫びが聞こえてきた。
(お前など、あのとき死ねばよかったのに…!)
「あ、ああ…!」
紅香の感情が自分の中へ入ってくるのがわかった。紅香は朱花を憎んでいた。ずっと死を望んでいたのだ。そして、あのとき…!
「ううっ…」
朱花は胸に痛みを覚えた。今まで感じたことのない痛みだ。いや、自分はこの痛みを知っている。幼い頃からこの痛みに苦しめられてきた。そう、あの日も…。あの日も、発作が起きた。
(あ、ねうえ…!)
朱花は自分がなぜ一度死んでしまったのか、思い出した。あの日、火の儀式の日。姉は自分を置き去りにした。発作に苦しむ自分を置いて去ってしまった。紅香の怒り、妬み、苦しみ、悲しみ、すべての感情が波のように襲ってきた。
「や、やめて…!」
朱花はたまらなくなり、紅香の手を振り払って走り出した。
(姉上は鷽皇子を深く愛している。なのに、私は鷽皇子を…好きになってしまった。)
どこをどう走ったかわからない。いつの間にか知らない場所に辿り着いていた。美しい白い花が月明りに照らされていた。どうやらどこかの庭のようである。白い夜着に身を包んだ細身の男が驚いたように朱花を見ていた。金髪に碧い瞳に優しげな顔立ちをしている。男性にしては色白で、とてもすらりとした体つきをしていた。
「これは剣の巫女か。なぜこんなところへ…」
「わ、私…。あ、あなたは…?」
また胸が痛くなり、今度は息が出来なくなった。
「ああっ…!うっ…!」
あまりの苦しさに、朱花は崩れ落ちた。細身の男がその身体をぐっと支えた。細いように見えたが、鍛え上げられた強い腕だった。
「大丈夫か⁉」
男に呼びかけられたが、朱花は答えることができなかった。
(い、息ができない…!)
「ゆっくり、息をするのだ。」
「ああっ、はぁ…!」
男に背中をさすられ、朱花はようやく息ができるようになった。しばらく男の胸に身を任せ、息を整えた。男は朱花の身体を抱えながら、心配そうに見つめていた。朱花は、ハァ、ハァと息を荒げながら男を見つめ返した。金色の髪は短いが波打つように美しい。碧い瞳は宝石のように見えた。端正な顔立ちは誰かに似ているような気がする。
(琉那姫…?)
「…もう、大丈夫です。」
朱花は男の胸に手を押し当て、自分の力で立とうとした。しかし、思ったように力が入らない。
「無理をするな。お前は心気が弱いのであろう?」
男は優しく朱花を抱き上げた。細身にしては力強い。朱花を軽々と持ち上げていた。
「あなたはもしや…?」
「私か? 私は第一皇子伯だ。お前は火の部族長の娘、朱花であろう?」
「はい…。」
朱花はじっと皇子を見上げた。同じ兄弟でも、あの第二皇子皍や第三皇子の鷽とは全く雰囲気が異なる、と思った。第二皇子は鋭く冷たい感じ。第三皇子は情熱的な感じだ。しかし、第一皇子は穏やかで優しい感じを受けた。母親が違うと、こうも違うのか。
「あ、あの、ありがとうございます。ひ、一人で歩けます。」
「そうか? 私には今にも倒れそうに見えたが。」
「で、でも、誰かに見られたら…恥ずかしいので。」
姉の紅香にでも見つかったら何を言われるかわからない。それに朱音は体が丈夫で運動が得意だったので、こうした扱いには慣れていなかった。ふっ、と伯皇子は微笑んだ。
「お前の気持ちはわかるが、放っておけぬのだ。私も幼い頃から体が弱いのでな。」
「皇子様が?とてもそんな風には見えません。腕も力強いのに。」
朱花の反応に、伯はハハハ、と声を上げて笑い出した。
「弱いところは見せられぬのだ。長子だからな。」
その笑顔を見ていたら、朱花もふっと笑みがこぼれた。
(優しくて、素敵な人…。)
この世界に来てからずっと緊張の連続だったが、朱花は初めてホッとするような人間に出会えたような気がした。朱花は皇子の胸に顔をうずめた。安心して、なぜだか涙が出てきた。初めて会ったばかりなのに、心が落ち着く。伯は朱花の涙に驚いたが、すぐに何かを察したのか、憐れみの目を向けた。
「急に宮殿に連れてこられて大変だったな。明日、お前は皇帝陛下の前で剣の巫女として勅旨を受けるであろう。そうすればもう、お前はただの娘ではなくなる。龍の国に身を捧げることになるだろう。」
「私が剣の巫女とはどういうことですか?」
「古から伝わる伝説の剣を王に捧げる龍の娘の話を聞いたことがあるだろう。それは決しておとぎ話の世界ではない。お前はその星の下に生まれ変わった。星読みたちの予言だ。お前はこの国を揺るがす龍の娘となるのだ。」
「私は何も変わりません。」
朱花はきゅっと唇を結んだ。剣の巫女だの、龍の娘だの言われてもよくわからない。自分は朱音で、自分は朱花なのだ。何も変わらない。泣いていたかと思えば、凛とした表情でまっすぐ見据えてくる少女に、伯は戸惑った。朱花は続けて、言った。
「小さい頃聞かされたおとぎ話では、龍の娘は龍の愛を受けて始祖王を産んだけれど、最後は国を守るために王に剣を捧げて死んでいったわ。私はそんな人生は歩みたくない。私は私の人生を生きるわ。星読みが何なの⁉ きっと何かを読み違えているのだわ!」
自分でも驚くようなくらいスラスラと自分の気持ちが言葉に出た。火事で死んだ朱音。心臓発作で死んだ朱花。二人をつないだのが龍の力だというのなら、きっとそうなのだろう。しかし、だからといって伝説の剣の巫女のように国に命を差し出すようなことは絶対にしたくない。助かった命なのなら、それは自分自身のもの。自分の思うように生きたい。自分にできることがきっとあるはず。
「おもしろい娘だ…。」