白黒未練と色彩少女
おいで。もしもそう呼ぶ声が聞こえたら。
けして足を進ませてはならない。
けして振り返ってはいけない。
もしも、足を進めて、振り向いたのなら。
あなたは一つの街に呼ばれてしまうだろう。
―――ようこそ。ここは【未練】を象る色の欠けた街。
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色彩の欠けた街の中、一人の色鮮やかな少女が歩く。
かららんころろんと下駄の音を鳴らして、色彩鮮やかな柄が犇めく着物をひるがえし、少女は楽しそうに道を歩いていく。
街に響くのは自鳴琴にも似た手風琴。
キリキリ歌う機械じかけの演奏者を一瞥することもなく、少女は道を歩いていく。
柔らかな風が遠くの家並みの瓦を撫でて、風見鶏をクルクル回していた。
「―――先生!」
そう呼ぶ少女の声に、真っ黒に形作られた青年―――だろうか、不明な人影が振り返る。
年若く見えるのはその人影がまだ背筋を綺麗に伸ばしているからで、それ以外の情報はまるで影のように見えてこない。
「先生、今日もお話、聞かせてくださいな」
人影は頷くように頭を振って、それからゆっくりと近くの灰色の椅子に腰かけた。
少女もまた近くにある茶色い椅子に座って、話を聞く。
「今日はどんなお話をしてくださるの?」
少女は人影に話しかけ、ふふ、と笑った。
「そう、そんなお話を聞かせてくださるのね!」
嬉しそうに、楽しそうに、少女は笑って―――結局、日が暮れるまで。その場に留まっていた。
「ありがとう、先生。とても楽しかったわ!」
そう言って駆けていく少女に、家はない。
家族もいない。いつの間にかいなくなっていた。
時折人とすれ違うが、それ以外で、彼女は人と出会うことはない。
だが、その色鮮やかな人物は少女を認識していないし、少女もまた、その色鮮やかな人物を認識していない。
この街はそういうように形作られている。
そうしてまた日が昇れば―――作り物の太陽が昇れば、少女は【先生】に会いに行くのだ。
「先生!」
今までの思い出を繰り返すように、振り返るように、少女は【先生】に会いに行くのだ。
―――ここは【未練】を象る色彩の欠けた街。
少女は【未練】が消えるまで。あるいは【未練】を忘れるまで。あるいは【未練】を断ち切るまで。
この街でずっと、【先生】に話を聞きに行くのだ。
いつものように少女が、桜色のふっくらとした唇を動かした。
「先生」
人影がゆらりと振り返る。
「先生」
少女の足元がじわりと色を失くして―――灰色に染まっていく。
「せんせい、って、だれ、だっけ」
「おもい、だせないの」
「わたし、わたし、せんせい、に、あわなきゃ、いけない、のに」
ゆらりと影が立ち上るように少女を覆う寸前。
人影が動いて、少女の腕を優しく掴んだ。
「………せん、せい?」
ゆるく人影は頷いた。
途端に、少女の色彩があふれかえって―――元の、色鮮やかな少女にたちまち戻る。
「……先生、今日も、お話、してくれる?」
こくり、と人影は頷いた。
少女は笑って、茶色い椅子に腰かけて、それから口を開いた。
「………先生。 わたし、先生が先生じゃなくっても、今でも好きよ」
こくり、と人影は頷いた。
それを、知っているかのように。
「うん。先生。 せんせい、ありがとう」
人影はゆっくりと頷いて、それからまた、少女にしか分からないお話を始めた。
―――ここは【未練】を象る街の、その一角。
誰にも分からない、忘れ去られた少女と【先生】の物語。