孤独の埋葬
ふぅわりと浮かぶ、真っ白で透明な少女。
名前も知らない、住所も知らない、年齢…は見た目でしか分からない。それに、この子の年齢が果たして、その見た目そのままなのか、ぼくには分からない。
「ねぇ。お願いがあるの」
いつもそうやってぼくに向かって、ふよふよと浮かびながら少女はぽつりと言葉を落としていく。
「ねぇ。お願いがあるの」
知らない。ぼくは何も知らない。ぼくはなんにも知らないんだ。だから、彼女にあげられるものなんて、いつもポケットに入っている飴玉一つだった。
「…ありがとう」
飴玉をあげると、彼女はいつも一度だけ瞬きをして、それからふぅわりと、浮かぶ速度と同じだけゆっくりとぎこちない笑顔を浮かべるのだ。
いつか、あの笑顔も綺麗な作り方を覚えてしまうのだろうか。だとしたら少し、悲しくて、可愛らしい笑顔になるのだろうな。ぼくは誰に言うでもなく、そう思っている。
カレンダーにバツ印。増えていくそれは、もう後数週間で、一年が経つ頃合だった。
ふわ、と風が揺れたような気配がした。読んでいた本から顔を上げて、目の前を漂う真っ白な彼女をぼにゃりとぼくは見つめる。
「ねぇ。お願いがあるの」
彼女は飽きもせず、今日もやってくる。カレンダーの日付は順調に数を伸ばして、もう一年経つまで後数日という頃だった。
彼女は唐突にぼくの前にふよふよ浮きながら現れて、透明な姿と表情を晒してそこかしこの物に触れる事もなく、唐突に居なくなる。それが一体どうしてなのかは、よく分からない。
ただ、その透明な表情に、ぼくはとても見覚えがある気がした。
そう、何だか泣きそうなのをずぅっと堪えているような、透明で水のにおいのする、あの表情に。ぼくはとても見覚えがある気がしたのだ。
「……うん。ありがとう…」
ポケットに入っている飴玉を握り締めて、透明な彼女はとてもぎこちなく笑う。
ふと気付けば彼女は居なくなっていた。カレンダーのバツ印は、ひとつ、数が増えた。
けれど、それだけだった。それ以外、何も起きていない。少なくとも、ぼく以外には。
また今日も、彼女のお願いを聞いてはあげられなかったな。そう思いながら、ぼくはベッドにごろりと寝転がって布団を引き上げた。
その日、彼女は、ふわふわ浮かぶ事もなく、真っ白で透明なまま、けれど泣き顔でぼくを見た。
「私の死に方を決めて」
それが、彼女のお願いなのだな。ぼくは誰に言われるでもなく、そう気付いた。けれど、ぼくにそのお願いは叶えられない。
カレンダーのバツ印は、もう明日で一年が経つ事を教えてくれている。けれど、ごめんね。昨日と同じように、一年前の今日と同じように、きっとぼくは明日も、君のお願いは叶えてあげられない。
「目をつぶって想像してみて。それだけでいいの」
お願い。
それだけの一言。けれど、ぼくはそれも出来なかった。ゆるゆると首を振って、ごめんね、と呟いた。
昨日と同じように。
去年と同じように。
ぼくは、ぼくの臆病で、君を失ってしまう事が、怖いんだ。
「ごめんね、ぼくは。君を、殺せない」
「どうして?一緒は、いや?」
「いやじゃない!いやじゃないさ!でも、理屈じゃない!」
ぼくは、ぼくの勝手に君を巻き込むんだ。君が、ぼくを、君の勝手に巻き込んだみたいに。それは理屈じゃないし、まして理性でもなかった。本能だ。
大好きな君の笑顔が、見たい。
たった一つ、抱え込んだ、その思いを抱き締めているだけなんだよ。
それはまるで、言うならば本能で、そして―――君に恋をしたような気持ちだったんだ。
かつん、と廊下を歩く。
ふ、と看護士の人が、ひそりと囁きあっている声が聞こえてきた。
「ひとりぼっちで、かわいそうにね…」
「あの部屋の患者さん?でも、誰かと…」
「きっと、夢よ。じゃなきゃ、おかしいもの」
「そうかしら…」
「そうよ。きっとね」
花束ひとつ、手に持ったまま、病室を目指す。
「やぁ。……君が、ずっと来ないから。ぼくから、今度は会いに来たんだよ」
ピッピッピッと規則的な電子音が響く、無機質で真っ白でどこまでも透明な部屋の中、彼女によく似た女性とぼくは向き合っていた。
この部屋の中でこんこんと眠り続けて、たまにふと目覚める彼女は、去年の中頃から夢の中で誰かに会っているのだと、ずっとお医者様たちに話しているらしい。
ぼくの話を彼女から聞くなんて、随分おかしな話だけれど、もっとおかしな事は、きっと世の中にはもっとたくさんあるのだろう。
まぁるい病院のイスに腰掛けて、ぼくはすっと息を吸った。
「君の死に方を、ようやくぼくは決めてあげられそうだよ」
彼女へ、ゆっくりと話しかける。
「君は、ずっと、独りがいやだったんだね。ぼくも、それは、とてもよく、分かるよ」
そっと、冷たい指先に触れる。規則的な電子音は、彼女の心臓と脳の音を放っている。彼女が生きたい、と思っているシグナルを、ずっと発している。
「ぼくも、ずっとひとりきりだったんだ。でも、君が来てくれたから」
恩を返そう。
ぼくを孤独から救ってくれた、名前も住所も年齢も知らない、なんにもしらない、彼女のために、これがぼくのしてあげられる、精一杯だった。
「君の、死に方を、決めてあげよう」
ぴく、と彼女のまぶたが揺れる。
ゆっくりと持ち上がったまぶたはまたすぐに閉じて、もう一度ゆっくりと開く。それから何度か瞬きをして、視線がふぅわりと、風のように緩やかにぼくを見た。
「……君は、ここから出て、それで、誰かと一緒に遊んだり勉強したりして、それで、もっと忙しく毎日を過ごして、その日々を大事にしながら、」
飴玉を貰ったときみたいに、彼女が、ゆっくりと一度だけ瞬きをした。あぁ、それは君の、驚くときの癖なんだね。今なら、よく分かるよ。
君はきっと、ぼくが、君との一日を大事にしていたなんて思ってなかったんだろう?
ううん、違うな。そうだと思いたかったんだね。 大丈夫、ひとりぼっちは、もう終わりにしよう。
「それで…ぼくと、お付き合い、して、結婚して。…しあわせになって、くれると、ぼくは、嬉しいなぁ…」
ゆるゆると彼女のほっそりした指先が持ち上げられて、ぼくの頬を撫でる。熱い涙が、彼女の冷たい指先と溶け合って、ぬるく温度を変えていった。
「…ありがとう。 ……うれしい…。 私の死に方を決めてくれて…」
ぎこちない透明な笑顔は、もうそこに無かった。