君は吉野の桜のような
いやよ、いかないで。そう泣くおんなの数を、後どれだけ己は数えれば良いのだろう。己が惚れるのではない。おんなが惚れてしまうだけなのだ。
それがどれだけ罪を作ると言われようと、己にはそれがどのような罪にも思えなかった。
例えば、朝、窓掛けを開けながらおんなが振り返る。それだけでまっこと己にとっては満足のいく情景なのだが、何かが足りぬ。
(あぁ、このおんなでは無かったのだな)
そう思って別れを切り出す。そうしておんなが縋り付くのだ。
他のおとこたちがそれを見て羨望の眼差しを向けるが、己にとってはただ鬱陶しいだけである。
己が衆合地獄へ落ちようと誰にも迷惑は掛けぬのだから良いではないかと思う。
だが、他のおとこはけしてそれを許してはくれないのだ。それだけが、己にとっては途轍もなく苛立たしい。その苛立たしさから今日も今日とて情景を夢想する。
うつくしいおんなが居る。 おんながこちらを見て微笑んで、手を伸ばす。だが、おんなの顔だけがとんと見当が付かぬ。
まったくもって浮かばないのだ。分からぬ。分からぬ事でまた苛立つ。そうして酒の勢いで適当におんなを引っ掛けて、また一度別れを切り出すのだ。
(やはり、己にとっての理想のおんななど居ないのだな)
己が次第にそう思うのも無理は無く。しかし、理想のおんなを求めるのは止められない。
次こそは。このおんなこそは。そう思って手を伸ばし腰を抱きその腕に抱かれ、小さな唇に口付けようと、同じ事だった。
別れてはまたおんなを引っ掛け、引っ掛けては別れ。己は何がしたいのだろうか。理想のおんななど居ないのでは無かったか。
おんなはそこが良いという。じぶんを見ない目つきがよいのだと。
己にはそれの意味がてんで分からない。何故じぶんを見ないものがよいのか。自分だけを見て、好いて、愛しいというものを、何故に見てやらないのか。
それにまた苛立って酒を飲んでおんなに声を掛ける。
しょうのないひと、そんな風に微笑むおんなは、やはり理想のおんなとは違うのだ。
何故だ、何故なのだ。何故己の理想のおんなに出会えぬのだ。何が悪い。己か。酒か。はたまたおんなかおとこか、それすら分からぬ。
分からぬままに日々は過ぎ、桜の季節がやってくる。
どれ一つ花でも見ていこうかと己は桜並木のある道まで歩く。歩きがてらに団子を買って頬張りながら桜を見遣った。
「あぁ、このようにうつくしいおんながいたのならなぁ!」
そう嘯くが都合よく現れるわけもなく、その日は己は日が傾き、人が疎らになるまでそこに座っていた。桜が夕焼けの中で風に煽られ、ふうらりと揺れる様を、誰と過ごすでもなく、見ていた。
次の日も、己は桜を見るために桜並木まで足を運んでみる。
その桜は大分散ってしまっていて、見る影すらも無くなってしまっていたのだった。しかし夜桜まで見ていってやろうという不思議な心持ちになって、夜中まで一人で飲んだ。
気分よく酒を飲んで、ちと飲みすぎたかと思いながら道をふらふらと揺れながら歩く。
己にとっておんなというのは理想を追いかけるための偶像に過ぎず、おとこというのはただの有象無象でしかない。
されど、おんなにとっての敵はおんなであるように、おとこにとっての敵は同じおとこである己だった。
だからこうしておんなに刃を向けられても、誰も止めずに振り返る事無く歩き去って行くのだろう。
ぞっとするほどうつくしいおんなだった。
「あんたはいいね、酔っ払えばおんながやってくる」
「何、お前さんにもひとりぐらい、いるだろう。いいおとこってのが」
「居るわけないさね。あたしはあんたが良いんだよ」
月明かりに照らされたおんなの顔は青白く、また目に湛えられた涙が艶めいていた。
「尚更己などと。どこがいいおとこなものか。お止めよ、お前さんのようなうつくしいおんなが、そんな事を言うものではない」
「あんたはそうやって、ひとをうつくしいからと、お止めよと優しい事を言うから」
また好きになってしまうじゃないか。そう言っておんなは刃をまた向ける。
「もうお止しよ。なぁ、お前さん。お前さんはたしかにうつくしい」
じゃりっと音を立てて一歩を踏み出した。
それにつられておんなが一歩、後退る。
「けれど、己が欲しいのは、もっとうつくしくはかないおんななのだよ」
例えるならば、吉野の桜のようなおんながいい。そう言って、己はゆぅるく笑ってやる。
おんなはそれに刃を下ろして、涙を拭い去ってから、一つ、言葉を零した。
「あんな有名なおんなになんか、勝てやしないね」
「そう悲しむ事はなかろうよ。お前さんにぴたりあうおとこはいつか見付かるさ」
「あんた以上のおんな泣かせは、そう居やしないだろうけれどね」
最後までおんなは泣いていた。また泣いていた。
「あんたのことが、あたしは好きだけれど」
うつくしい、と思ったのはほんの一間の事で、またおんなはただのおんなになっていた。またあのおんなも、己が求めるおんなでは無かったのだな。
ふぅと溜め息を吐いて、己は歩き出した。
最後におんなが呟いた言葉を思い返しながら。
「でも、あんたは好くだけのおんなは、いらないんだねぇ」
例えるのならば、吉野の桜のようなおんながいい。
…あの言葉は、はてさて己の本心からだったろうか。
そんな事を呟きながら、己は月明かりだけが照らす道を、ゆっくりと歩いていたのだった。