9,アラサー女の追想
長谷川美月33歳。営業3課所属、3ヵ月後に結婚を控える夢見るアラサー…んなわけあるかいっ。
美月は長年の習慣かいつも一番早く会社に入りこれまた習慣の様に朝のひと時…缶コーヒーでブレイクタイムを過ごす。
週末は最近ずっと式の準備で忙殺されている。
相手の招待客の多さに眩暈がするがそれはもう承知の上、せめて式は晒し者にされないように普通に、普通な式を挙げたいと目を光らせている。
夜は夜で鬱陶しい程に纏わり着く婚約者に時間を獲られ(割と酷い言い方だけど!)好きな事も出来やしない。婚約すれば多少は落ち着くかとおもったが逆だ逆。
そんなことを考えながら机から書類を引っ張り出していると同僚が出社して来た。
「美月さんおはようございます」
「おはよう~」
挨拶をしながら向かって来たのは後輩の一之瀬沙紀だ。
これもほぼ毎日の日課のようだ。
3課の片手で数えられる女子の一人。
配属当時は大分ヒヤヒヤした。なんでまた女子?その上新入社員だった。
3課に新入社員はありえないだろうと人事はなにを考えてこの決断を下したのか不思議だった。
この3課で女子は育たないというある意味ジンクスのような伝統のような事実が社内に知れ渡っている中で、果たしてこの子はどのくらい持つのかな?など想像し、同時にまた小暮課長のイライラが爆発しなければいいなとわが身大事な私は逃げる算段まで考える。
そういった意味で彼女は周囲の注目の的でもあったが理由はどうやらそれだけではなかった。
社員食堂で秘書課の面子と一緒になり彼女の話題が上ったのだ。
「実は秘書課でも彼女の打診してたのよねー残念」
「…そうなの?」
そういった一人を思わず二度見した。
「あんな妹なら私もほしかったわぁ…」
いつもは小娘なんて小馬鹿にしてるこの秘書課連中の気味の悪い賛辞に驚く。
「あら、知らないの?彼女他課でも結構打診あったのよ?」
3課にとって新入社員の情報など正直不要であった。
確かに、第一印象は濃紺のパンツスーツに今時結い上げた真っ黒な髪に眼鏡と最近の若い娘と違いちやほやした雰囲気ではなかった。小柄で大人しそうな…小動物?この課の連中についていけるのか逆に私は心配なのだが…。
それだけで彼女たちが褒めちぎる理由などありえないだろう?
そんな感想をいうと秘書課の華どもはにやりと笑いこういった。
「まぁみてなさいよ?」
そんな不気味な予告をされた翌週。さっそく彼女の能力が発揮されていた。
メモ帳を片手に彼女はとにかく必死に仕事を覚えていった。
分からないことや疑問におもう事をまとめ、仕事の邪魔にならないタイミングで聞いてくる。一度教えたことは2度は聞かない。非常に楽だったのだ。
仕事中の言葉使いも丁寧だ。日頃から慣れていないといずれボロが出るものだがそんな事は微塵もない。
そして何より周囲が驚愕したのは彼女はバイリンガルなんてものじゃないマルチリンガルだった。
「10ヶ国ぅ!?」
「大体そのくらいでしょうか…?」
帰国子女で海外生活のうちに既にその半数は親に叩き込まれたとか…なんてブルジョワ…。
羨ましいほど華麗に操る多言語にいつしか彼女に添削を願う者も出てきたほどだ。
その上最大の懸念事項の小暮課長に対してのモーションも既に彼氏持ちということで眼中にもないようだった。流石にここまで来ると人事に対しグッジョブを贈るしかない。
今やギラギラモードだ、当然次は課内での一之瀬争奪戦となる。
「EUにきまってるだろうが」
と部長、課長の鶴の一言で簡単に終わったが…。
そんな彼女にも苦手なものはあった。
魔法のように多言語を操るのにまさかの母国語である日本語…漢字が苦手なのである。
「すみません…アジア系は全くダメなんです…漢字って難しいですよね」
と頭を抱える、なんて可愛い弱点だ。
辞典を片手に唸っている姿は女の私から見てもとても微笑ましい。
とはいえなんとかその弱点も克服していってもらわねばならないのだが…。
そうして課内で数少ない女性同士で親しくなるのもそう時間はかからなかった。
本当に妹がいたらこんな子に育って欲しいとおもう。
そして現在。当時の幼さが消え蛹から蝶になるように美しくなっていくように感じる。
姿形は依然同様キリリとしたパンツスーツに結い上げ眼鏡であるが、ふとした仕草がとても女性らしい。
彼氏もちだろうが何だろうが彼女に視線を送る男性社員がどれほど存在するか、彼女はまったく気付いていないのだろう。
私は美月さんの隣の机に荷物を置くとコンビニで買ってきたミルクティーを取り出す。
うちの課には「長谷川」が2名いるので彼女の事は皆名前で呼んでいる。
椅子に座って荷物をしまっていると美月さんが聞いてきた。
「金曜大変だったんだって?」
「よくご存知ですね。どこ情報ですかそれは?」
「二課の人に昨日街で偶然…?話しながら青ざめてたわよ」
にやりと笑い昨日の事を思い出しているようだ。
「あぁ…それはご愁傷様ですね…」
元々二課の尻拭いをしたようなものなのだから今日は何かしらあるだろう。
週末に届いたFAXを分別しながら今日の予定を組み立てていく。
「そうそう楠木さん、覚えてる?」
「楠木さんって1課にいた営業主任ですよね?」
「正式な内示出てないからオフレコだけどアメリカからそろそろ帰ってくるっぽいねー」
「相変わらずの情報通ですね…」
1課の楠木といえば小暮と並んでエリートを走っていた一人だ。
たいして面識はないが総司さんと並んで女性からの人気が高かった。違うとしたら楠木はかなりの遊び人というところだろうか。月単位で噂の女性の名が変わっていたような。
2年前からアメリカに行っているが本社に戻るとなると役職確定か…
「どこにいくんだろう…」
私がぼそりと呟くと美月さんは缶コーヒーを飲みながら眉を下げる。
「多分1課の部長じゃないかって」
「一気に部長ですか…」
「それよりもまたハイエナ共の視線が痛くなるわぁ…できればフロア分散希望」
「営業フロアはいつも話題がありすぎて困ります」
確かにといいながら美月さんは立ち上がり…缶を捨てに行くのだろう。
私はミルクティー片手に資料眺めていたが美月さんが顔を近づけてくる。
「ちょっとどうしちゃったの?」
「…何がですか?」
ウフフと悪い笑みを浮かべながらトントントンと襟元近くの首にふれて耳元に囁く。
「キスマークついてるわよ?」
「なっ!…」
「襟スレスレだねー。お熱いことで!」
「うわぁぁーやめてくださいー!」
私は慌てて第一ボタンまで留める。
「今までこんな事なかったのにね?」
「いや…あの…」
言い訳を考えているとポンと肩を叩いて美月さんはその場を後にした。
日曜はもはやベッドで沈んでいた時間の方が多かったのではないかという有様だった。
そんな経験はいままでなかったのでこれが当たり前なのか異常なのかも分からない。
誰もそんな事教えてくれなかった!むしろ誰にもこんな事聞けないっ!
頭を抱えてそんな事を考えていると挨拶をしながら同僚たちが出勤してくる。
その中には勿論総司さんも含まれるが、私自身の平穏の為に二人の事は社内では秘密にして頂きたいと懇願した。
勿論あちらは非常に嫌な顔をしたが…。
総司さんは当然公私の区別はキチンとする筈だが、私の社内の立場は崖っぷちに立たされると断言できる。
そして私自身流されているような中途半端な状態だと感じている事も事実なので、どちらにしても時間も欲しかった。
自身のこんな急激な変化は姉の死以降なかったんじゃないかとおもう。
ただただ同じことを繰り返していた毎日。
そんな平穏な日々も苦じゃなかったが、小暮総司という人間と関わる事でなにかが大きく変わっていくような予感もしていた。
途中から沙紀視点に切り替わります。
わかりにくかったらすみません。