4,グランドピアノ
「すみません友人からでした」
椅子に腰掛けて報告するがなにやらその間に私の話で盛り上がっている?
「え…なに?」
「あれ?友人さんですか?彼氏さんかとおもってましたよ」
チーズを頬張りながら相沢がほざく。
全くもってタイミングがいいんだか悪いんだか。
「5年って結構長いよなー。そろそろ結婚なんか話にでないの?」
奥に居る竹内が更にえぐってくる。本当やめてとどめささないで。
ギムレットをゴクゴクと飲みつつこの雰囲気に眩暈がする。
男だらけの恋バナとか洒落にならないっていうの。どうやって反応したものか…
社内でも私に長年の彼氏がいることは知られていた。
3課は女子が非常に少ない。自分を含めて現在3人だったがなかなかここでは女性は育たなかった。理由は勿論小暮である。
3課に来る女はたいてい小暮に色目を使い最終的に玉砕して移動する、もしくは退職する。元々この課は精鋭部隊である。仕事に厳しい小暮が使えない人材をそのままにしておく筈もなく、玉砕後生き残る女性は皆無であった。
そのせいで他課の女性の視線は非常に痛い。
今居る女性は自分含め3人のうち一人は既婚者。もう一人は既に婚約している。
残る独身は私だがその視線から逃れる為に敢えて「彼氏もち」を掲げていた。
それでも女性からの視線で焼ききれそうなんだけど…
苦肉の策だが話題を逸らすようにマスターに先ほどの話をする。
「マスター。折角なので1曲弾かせて頂いても?」
「はい、是非お願いいたします。いくつか楽譜もご用意できますが?」
今の気分は絶賛ショパンだ。
「大丈夫です」
奥に悠々と鎮座している憧れのピアノに本当ならこんな気分で弾きたくなかったけど。
でもこの気分を紛らわすのも結局は好きなピアノなのかもしれない。
蓋をあけて鍵盤に目を向けると顔が綻ぶ。
ポロンポロンと音を出してみる。うん、いい調律をしている。
椅子に腰掛け深呼吸をする。そしていつもの様に優しく鍵盤に音色を刻んでゆく。
落ち着いた店内に静かに、美しいピアノの旋律が流れる始める…
ショパンのエチュード第3番ホ長調Op.10-3「別れの曲」
序盤の美しい旋律を聴けばだれもが頷く有名どころ。今の気分にも最適じゃない?
そして私自身この曲がとても好きだった。
楽譜なんて無くても目を瞑っていても指が鍵盤を覚えている。
曲を十二分に理解してここは静かに流れるように、次のパートは大胆にはっきりと、流れるような旋律で難解なパート部分を弾きこなし最後はそっとふれて名残惜しいとおもいながらも鍵盤から手を離す。
弾き終わったあとの幸福感と満足感。あぁ…やっぱりこの音は大好きだと毎回感動する。ピアノをそっと撫でるとカウンターから拍手が起きた。はっと我にかえる。
「まさかここまでの腕前とはおもいませんでした。正直とても驚きました」
本気で驚いているマスターに苦笑いしつつお礼をする。
「意外だな…」
小暮も頷きながらマスターと顔を見合わせている。
「是非もう一曲お聴かせ願いますか?出来ればリクエストを」
「弾ける曲なら」
マスターがリクエストの楽譜を持ってやってくる。
「同じくショパンでございます」
楽譜を見るとマスターに再度苦笑いをする。また難易度の高い曲を持ってくるものだと。
「-革命-ですか。なかなか敷居が高いですね」
「はい。貴方でしたら弾けるのではないでしょうか?」
「どちらかというとラ・カンパネラの方が好きなんですが」
「それも是非聴いてみたいものです。連続でも?」
「指が攣ります」
再び椅子に座りなおし、習っていた頃の事を思い出す。
あの頃は師の意向もあったのかショパン漬けだった気がする。
譜読みに1週間程度かかって同時進行で幻想即興曲もやりつつ腱鞘炎になりそうだった。
今も勿論弾いている曲なので当然楽譜なんて必要なかった。
師事のちょっとした癖のある表現力に影響されつつ弾きこなすとやはり周囲は無言である。そんなに意外性があるのだろうか…微妙な気分になる。
「お見事です」
とマスターが賞賛してくれる。褒められるのは素直に嬉しい。
「一之瀬さんってすーぱーうーまん?」
ぼそりと相沢が呟く。
「なによそれ」
「俺ピアノとか全然わからないけど指がやばいですって!」
笑いながらピアノを後にして楽譜をマスターに返す。指がやばいって表現が面白いわ。
弾ききった高揚感が覚めやらないうちに感謝をマスターに伝える。
「ありがとうございます。素敵なピアノで大満足です!」
楽譜を受け取りながらマスターはさり気なく聞いてきた。
「もしや師事していた方はドィルヒュエ・シャーノンですか?」
マスターの言葉に今度は私が驚く番だった。
まさか師事の名を一発で当てられるとはおもってもみなかったからだ。
「びっくり…よく分かりましたね?」
「半信半疑でしたが…革命を聴かせて頂いて確信いたしました」
「やっぱり。コピーですよねあの弾き方」
「いえいえ女性らしい繊細さとシャーノンの表現力と見事に融和されていてとても素晴らしいとおもいましたよ」
にこりと微笑みながら新しいお絞りを差し出してくれる。
「それ程の技量があるのにそちらの世界には進まなかったのですか?」
「日本に帰ってきてやめてしまったので」
「勿体無いですね。実に勿体無いです…」
「弾くことは好きでしたが…コンクールとかはちょっと苦手で」
ちょっとうつむき加減でその場を濁す。
「むしろマスターにも驚きですけど」
「私は趣味ですから」
にこりと微笑みながら新しいカクテルを差し出す。
「別れの曲か…いい演奏だった」
横から小暮が呟く。
「好きな曲だったんであのピアノで弾いてみたかったんですよ」
「今でも弾いてるのか?」
「はい、自宅に電子ピアノがあるので休日とかは結構弾いてるかな?」
「また是非弾きにいらしてください。一之瀬様でしたら大歓迎いたしますよ」
「本当ですか!ありがとうございます!」
楽しい時間はあっという間に過ぎていった。