3,鳴る携帯
小暮がちょっとした軽食と美味しいカクテルを作る店があるという事で連れて行かれた店は、少し路地に入った一見見逃しやすい店であった。
席数はそれ程ない。カウンター以外に5席ほどのスクエアタイプのガラステーブル。1席1席に違う花が飾られ落ち着いた雰囲気の子洒落た店内。
明るすぎない店舗とオリエンタルな調度品。知識は皆無だがどれも一級品に見える。
なによりも私の目を引いたのは奥まったステージにあった一台のグランドピアノであったのだが。
「いらっしゃいませ、小暮様。お待ちしておりました」
小暮がカウンターでマスターらしき人に声をかける。
どうやら先に連絡をしていてくれたらしい。
「マスター。こんな時間に悪いね」
常連らしい小暮にひと好きな笑顔で対応するマスターは頷くとカウンターに手招きした。
「いつでも大歓迎でございますよ。本日はお美しい方もいらっしゃいますしね」
そう言って私に向かって微笑む。
「あ…りがとうございます?」
苦笑いしつつ礼をいうと横の3人が笑いながら席に手をかける。
「なんで疑問系なんだよ」
小暮が笑いながら私の席も引く。
「いや…だって…」
引かれた椅子の背もたれに手をかけつつ私は先ほどのピアノに釘付けであった。
あのピアノはもしかしたら…。
「なにかございましたか?」
マスターがにこやかに聞いてくるので思わず聞いてしまった。
「あのピアノって…」
おや?という様子のマスターがお冷を出しつつ返答してくる。
「ちょっとした趣味…ですよ」
「趣味?でアレですか?…」
「お客様はもしやあのピアノをご存知ですか?」
「まさかとは思いますが…スタインウェイ・アンド・サンズ?」
さらににこやかになるマスターがこくりと頷く。
私の気分が一気に上がった。ハイテンションである。
「凄い…スタインウェイのグランドピアノがこんな所にあるなんて…」
スタインウェイ・アンド・サンズ
ピアノ弾きなら誰もが聞いた事があるであろうピアノ製造メーカーだ。
どのピアノメーカーもスタインウェイのピアノを目標にしていると言っても過言ではない。完成度が高い分弾き手の演奏技術も試されるがこの堅固な音色は一度弾いたら忘れられない。私もそんなひとりであるが社会人になってもこのピアノには手が出せない。
場所をとるのは当然ながら問題は値段がやばいのである。値段が。
ついでとばかりにこれも聞いてみる事にした。
「奥行きはいくつなんですか?」
「188でございますね」
「え…A-188!?」
フルオプションを着けた軽自動車でも5台は買えるお値段だ。
「よくご存知でございますねぇ」
感心したように頷くマスターにすこし早口で答える。
「以前ASを使っていた事があるので…とても懐かしい感じがします…」
「音大ご出身ですか?」
「いえ…大学ではないんですがドイツで少し」
それに答えて驚いたのは連れの一人の竹内。
「え、一之瀬さんってもしかして帰国子女?」
「あぁうん。一応?父親の転勤でドイツにいたの」
「はぁー道理でドイツ語ペラペラなわけだ」
「父の知り合いがピアノの講師も時々やっててその時に習ってたのよ」
答えつつ椅子に腰掛けるとマスターが暖かいお絞りを差し出してくれた。
コートを椅子にかけてお絞りを頂くと横に座った小暮が突拍子も無いことを言いだす。
「せっかくだから弾かせてもらえば?」
「はっ???」
「それはいいですね、是非。あのピアノも弾いて頂ければ喜びます」
にっこりと頷くマスター。
やめてほしい…本当に。
確かに弾いてみたい…がそれはあくまでもギャラリーが居ない場合だ。
ピアノ自体は今でも家で弾いてはいるが人様に聴かせられるほどの腕前ではない。
「やめてくださいよっ…そんな皆さんに聴かせるほどの技術なんて持ってないですから」
「少なくともASが置かれている場所でしたら相当な環境だったとは思いますけどね?」
マスターはウィンクしながら小鉢に入った瑞々しいオリーブを差し出した。
地雷を踏んだような気がする…
AS-188は基本的に学校専用のグランドピアノで通常一般には出回らない特別モデルだ。
市場に出る事もあまりない貴重なモデル。それでも1台500万以上はする。
師事していた人物も実はそれなりに知名度のある演奏家だ。懇意にしていた父に連れられていった時に、たまたま私の演奏を聴いたその人が私の教師をかってでてくれたのだ。今でも度々連絡をくれるが主に私の生活を心配しての事でピアノに関してはあまり口にしない。
「で、どうする?」
面白そうに私を見る小暮にやけになって叫ぶ。
「シラフで聴かせるとか無理ですから!!」
「じゃあ早速なにか頼むか」
その場で私以外が笑い出した。
真面目にやめてほしいわ!!
コートの中のスマフォがブルルと振動する。
ドキリとしたが無視することにした…が隣の相沢が目ざとく。
「一之瀬さん。スマフォ?」
「あぁ…うん。無視でいいわどうせこんな時間寝てるもん普通」
結構な時間震えているものだからやはり気になるのか。再び相沢。
「出たほうがいいんじゃないすか?実家からとか?」
「化粧室どこですか?」
仕方なくスマフォを手に取り相手を確認すると少しほっとする。
大学からの友達の朝霧奈津子であった。ギムレットを頼み足早に化粧室に向かう。
「もしもし?ごめん遅くなって」
化粧室に入ると壁に背をつけながらこんな時間になんだろうと思案するが…。
『あぁ、沙紀あなた今どこに居るの?』
「どこって、ちょっと会社でトラブってやっと終わったところ」
『ならいいけど、後藤君に連絡とりなさいよ?』
いきなり意味の分からない事を言われて怪訝になる。
「どういう事それ?」
『さっき電話がきて沙紀と連絡が取れないって。連絡欲しいって言ってたよ?』
「はぁぁぁぁ?」
思い切りの脱力である。
奈津子は私と文也共通の友人であり、勿論交際していることは知っている。
だが先の電話で彼は勿論現状を話していないんだろう。
『どうしたの?』
はぁ…とため息を吐いて一言。
「別れたの、今日」
少し間を置いて。
『へ?』
「だから、今日別れ話して別れたのよ。…なんなのよ今更」
『どういうことよぉ~!?』
「今出先だから詳しくは後で話すけど…」
『うん』
「渚が妊娠したんだってさ」
『…はぁ?』
「うん、まぁそう言うこと」
『それって…』
「悪いけど他に電話しそうな所釘さしておいてくれないかな。もう私これから着拒にするから」
『う、うん。了解。それにしても…あんの女っ…』
「ごめんね。じゃあ切るから」
『あぁうん。沙紀大丈夫?』
「うん…。なんだか冷たいようだけどもう終わったんだってどこか割り切っちゃってる」
『沙紀…』
「また連絡するね?」
『うん。待ってる。じゃあおやすみ』
電話を切って文也と渚を着信拒否にする。
別れ話をして納得したんじゃないのか?こんなにさっぱりと別れてあげたのに着信数といい、友人を使ってまで一体なんの用があるというのだろう。
言い訳なんて聞きたくも無い。仕事と同じで結果が全てだ。
浮気は1度許したら終わりだとおもってる。姉がいい見本だ。
鏡に現れた自分の顔は紛れもなく不機嫌である。
せっかく素晴らしいピアノにお目にかかれたのに一気に気分が沈んでいく。
さっと口紅を直し化粧室を後にした。