11、沙紀の苦悩
夕飯は椿さんが気をきかせてくれたのか美味しそうなロールキャベツを作っておいてくれたので、簡単な副菜を作って食べ、二人とも早々に入浴を済ませた。
イレギュラーな出来事でいつもより早い帰宅をした総司さん。今日は久しぶりにゆっくりとできるようだ。
二人でソファーに座りテレビを見ながらもどこか上の空のようで最初に口を開いたのは総司さんだった。
「多分あの調子じゃまた押しかけてきそうだけど大丈夫か?」
「びっくりはしましたけど大丈夫ですよ?」
「ならいいが…」
「あの強引さはもう総司さんで慣れてますから」
苦笑い交じりに私が答えると彼は手をぎゅっと握ってきた。
「それくらしないと沙紀を捕まえられない」
「少しは考える猶予も与えてください」
「その一瞬が命取りになる」
「私別に逃げたりしませんよ?」
総司はそうではないと言おうとおもったが敢えて言葉を飲み込んだ。
沙紀の対人関係はきわめて良好だ。適度な距離をとりつつ相手を不快にさせない程度には踏み込んでくる。だが沙紀自身はどこかで必ず一線を引いているように思えた。その先に踏み込ませないようにしている「大きな壁」の存在をこの数年で総司は確信していた。
その一線を越えた先の彼女を総司は知りたいとおもっている。
握った手のひらを優しく撫でながら総司は困ったような顔をする。
「それより椿とはどんな話をしたの?」
「どんな話ですか…えーっとですね…うん。そういえばすごく気になる事仰ってたんですよ」
「気になる事?」
「はい。なんでも隠し事のできない家庭だって。どういう意味でしょう?」
「確かに…ウチはちょっと特殊な家庭かもしれないな。でももう少しだけそれを話すのは待っててくれないか?別に疚しい家じゃないから安心してくれ」
「そんな風にはおもっていないですけど…」
「うん。まぁ…おせっかいな人たちが色々と多いんだよ」
「じゃあ、今は聞かないでおきます。あとは…総司さんのお話もしました」
「俺の?」
「はい。椿さんとお話していて、総司さんをちゃんと一人の人間としてみてやってといわれて気付いたことがあるんです」
「そんな事言ったのか…」
私は少し俯き今思っている事を一生懸命整理して総司さんに伝えることにした。
「別れてすぐに総司さんに頼って自分って不誠実な人間だって事ばかりしか考えてなくて、総司さんがくれた好意に対して私…全然きちんと向き合ってなかったなって…」
「沙紀…」
上司としてはこの人をとても尊敬していた。
自分に対しても部下に対しても非常にシビアだが、それ以上に仕事に対する大きな満足感も与えてくれる。それは自分の糧になり次へのステップに繋がっていく。
いいさじ加減でその人間の『武器』になりうる長所を活かし、伸ばそうとしてくれる。
自分だって毎日大きな案件を手にしているのに、個々それぞれ違う感性を持つ部下をきちんと把握していなければそんな事は出来ないだろう。
そしてそれは大きな信頼となって課内の団結を深めてゆく。それが精鋭部隊の3課だ。
人生の大半を仕事に費やす人にとって仕事が楽しいと思える事は素晴らしい事ではないだろうか。毎日が忙しくてもとても充実している。そんな環境をつくっている小暮を私はとても尊敬していた。
そんな雲の上のような男性が自分に愛を囁くのだ。
始めは戸惑いの方が大きかった。一体いつからそんな気持ちを胸に抱いていたのだろうと。歳だって私より8歳も上のはずだ。そんな男性がまだひよっ子の私に振り向いてくれるなど誰が想像するだろう。少なくとも仕事中もプライベートでも今までそんな素振りは全く感じたことがなかった。
そんな『上司』としての仮面をはずし『異性』として小暮総司という男性を意識しだすと正直仕事に手がつかなかった。仕草ひとつ表情ひとつが気になって仕方なかった。
それではダメだと自分に叱咤して得意な翻訳など打ち込んだがやはり動揺は隠せない。今まで感じたことのない感情が体中にぐるぐると渦巻いていく。
文也からの告白の時とはまた違った体中の水分が沸騰するような感情。
そんな感情を自分は知らない、知らないからこそ怖くて振り向きたくなかった。
ましてや一つの恋が終わったばかりだ。新しい恋なんて常識的に早すぎると心が抑制した。今はただ流されているだけなんだと。
理解し難い感情と理性が矛盾して考える事も怖かった。
自分ですらも抑えられないのが恋--------
そういった椿さんの言葉が心にストンとはまった。
時間も理屈も関係なく突然落ちるのが恋なのだとしたら…
「後ろめたいって思ってる時点で私の気持ちってもう決まってたんですね。他に人になら絶対ついていかなかった。総司さんだったから…総司さんだったから嬉しかった」
顔を上げて総司さんの目をしっかりと見る。
総司さんはそうすると私の頬に手を添えて優しく微笑む。
「私も…あれからとても総司さんを意識してます。今まで知らなかった総司さんをもっと知っていきたいです」
「俺ももっと沙紀を知りたい」
「総司…さん…」
総司さんは片手で私の背中を引き寄せ真っ赤になっているだろう私の顔に…額に、瞼に、頬にと唇を落としていき唇にそっと振れるような啄ばむキスを落としていく。
「強引に事を運んだとは自覚してるが決して軽い気持ちじゃない。沙希が幸せなら見守るだけでいいと思っていた。…でももう遠慮はしない。俺は沙紀とこれから先の未来を歩きたい」
「みら…い…」
「結婚したいって事だよ」
「けっ…っけっけっこ…」
結婚!?結婚!?って言ったよね今?
私が大きく目を見開いて口をぱくぱくとさせていると総司さんが不思議そうな顔をしてニヤリと笑った。
「行き着く先はそこだろう?」
「で…でもっ…私、身内ももういないし…」
「うん?」
「そういうのは私たちだけの問題じゃないかと…」
実際親がいない娘なんて世間体が悪いと結婚に不満を持つ家族もいると聞く。
姉の結婚も最初は相手の両親がかなり渋った。事故で亡くなったのは残念ですけどと何かと理由をつけては結婚については否定的だった。やっと承諾したのは…両親の遺産のお陰だと悲しそうに笑った姉を思い出す。
最初その話を姉から聞かされたときは憤慨した。姉にも婚約者にもだ。
姉にそんな酷いことを平気でいう両親に対しなにも庇おうとしない婚約者に。
そんな婚約者をそれでも好きなのだという姉に。
恋は盲目というが私ならそんな相手も親も願い下げだと姉を詰った事もあった。
どこか婚約者に執着している姉を遠くからみて恐怖心も沸いた。
積極的な方ではなかったとは思うがそれでも最初の頃はお互いが対等なように見えた。
が次第に姉はただただ婚約者の指示に従順になり、最期の1ヶ月くらいは殆ど家に引き篭もっていた状態になった。
姉は今本当に幸せなのだろうか?
そんな事を私はずっと考えていた。
姉の死後も文也との交際で敢えてお互い結婚に関しては振れないでいた。
というより私が避けていた。ただただ怖かったのだ。
ぽつぽつと小声でそれを口にすると総司さんは少し不満げな顔をした。
「うちの家族はそんな了見の狭い人たちじゃないよ」
「す…すみません。そんなつもりで言ったわけじゃないんです」
「分かってるよ…不安なんだろう?ただそんな事で自分を卑下したり何かを諦めるというのはやめてくれ。一之瀬沙紀という一人の人間だけが欲しいんだ。沙紀は身一つできてくれればいい」
私は総司さんの胸に額を擦り付けて目を瞑った。目頭が熱い。
「不安に思う事も、辛い事も、悲しい事も全部言ってくれればいい。その都度できるだけ安心させてあげれるように俺も努力する」
そうして私の背中を優しく上下に撫でる。
「だから一人で何もかも背負うことはないんだ」
「はっ…いっ…」
だめだ…あふれてくる涙が止まらない。
一人で生きていくにはあまりにも辛かった。
両親が、姉がいなくなりたった一人取り残されて途方に暮れて。
それでも私は生きていかなければならない。
一人でこれから生きていかなくてはいけない。
ドイツに戻ってこないかと先生に言われた事もあったがそれでは甘えてしまうと断った。やれるところまで走っていこうと自分に言い聞かせて、就職してすぐに家族の墓に行き、涙を流し今までの自分とは決別した。
あぁ…それなのに総司さんは私の一番欲しかった言葉をくれる。
私は…一人じゃないんだと。
「沙紀…頼むから俺の前ではちゃんと声だして泣いてくれ」
せつなそうな声をきっかけに私は彼のシャツにしがみ付きながら堪えていた声をだして泣いた。思えば姉の死後こんな泣き方は初めてだった気がする。
総司さんはそんな私を抱きめてずっと背中を撫でていてくれた。
深夜、沙紀が泣き疲れて眠りに着くのを確認すると総司はリビングで缶ビールを開けた。手には姉から預かった茶封筒の中身がある。
『一之瀬沙紀に関する調査書』
家族の関係者の身辺調査でいくつか見てきたがやはり気持ちのいいものじゃないなとソレを一瞥する。多少普通と違う家なのでもはやこうなる事は頭では分かっていたが実際目にすると非常に不愉快だと改めておもった。酒でも飲まないとやってられない。
しかし問題がなければ自分の手元には来ない事もまた理解していた。そしてコレが手元に来るのが些か早すぎる点についても疑問に感じた。
「急ぎだといってたな…」
他人の人生を覗くなどまるでパンドラの箱と一緒だなとため息を一つつき、覚悟を決めたように総司はその書類に目を通し始める。
10分ほどで目を通し後半に差し掛かる部分を何度も読み返す。
「どういうことだこれは?」
バサリと書類を机に投げ捨てる。
「これは…仕事以上に厄介だな…」
ひとり呟き沙紀の眠るベッドへ自分も就寝に向かった。
おそくなりました。
活動報告に記したように復活いたします。
やっとギブスとれたのでゆっくりな更新になりますがご了承ください。