第六十六話
1939年1月7日、東條達は千葉陸軍戦車学校にて新型中戦車の視察に訪れていた。
「おぉ、あれがチハ車か!?」
東條達の前には今年の5日に制式採用されたばかりの中戦車――九七式中戦車が鎮座していた。八六式中戦車や九五式軽戦車以上に長い砲身を持ちあらゆる砲弾を跳ね返しそうな装甲を身に纏いチハは彼等の前にいた。
「試射をしてくれないか」
「了解です」
チハはゆっくりと砲塔を旋回させて100メートル先に置かれた目標(故障の八六式中戦車)に狙いを定めて砲撃をした。砲弾は目標の装甲を容易く貫いたのである。
「素晴らしい!! ただそれだけだ!!」
「あぁ……しかし」
「費用コストがなぁ……」
このチハは史実チハに比べると約二倍も高価であった。
九七式中戦車
全長 7.5メートル
全幅 2.9メートル
重量 31トン
懸架方式 独立懸架及びシーソー式連動懸架
速度 45キロ
行動距離 260キロ
主砲 48口径75ミリ戦車砲×1
副武装 九五式車載機関銃×2
装甲 砲塔前面75ミリ
側面50ミリ 傾斜20゜
後面50ミリ 傾斜10゜
車体前面75ミリ 傾斜45゜
側面50ミリ 傾斜50゜
後面40ミリ 傾斜45°
上面20ミリ
エンジン 水冷V型12気筒ガソリンエンジン 500hp
乗員 五名
主砲は陸軍が主力と使用している八八式野戦高射砲を元に44口径から48口径に変更されている。
また、砲弾――徹甲弾は新型の九七式徹甲弾に変更されていた。なお、費用に関しては史実チハ車約二両半であり関係者達の頭を悩ましてるのも一つの種である。
「しかしノモンハンまでに時間は少ない」
「ハ号の生産を停止してチハ車の生産に全力を注ぐべきだ」
東條達はそう話す。チハの性能は先程の試射で分かっていた。
「……よし、ハ号の生産を停止してチハ車の生産に全力を注ぐ」
陸軍の腹は決まった。これ以降、陸軍は戦車の生産に全力を尽くすがその代償として開発途中だったキ43(史実一式戦闘機『隼』)の開発は中止となり九七式戦闘機の後継機は海軍の零戦を採用したのである。
5月1日、湖北省の襄東にて襄東会戦が5月20日まで続いたが史実通りの展開となった。だがその最中の5月12日、遂に日本軍とソ連軍はハルハ河付近にて大規模な戦闘が開始された。
後に言う第一次ノモンハン事件の始まりである。ソ連軍の対策は東條達もしていた。史実通りに衝突するとなれば第二三師団であろうと判断し第二三師団には九五式軽戦車を一個中隊12両を派遣していたのだ。第二三師団の小笠原道太郎中将は先の徐州会戦にも参加していた事である程度の場馴れはしているはずだった。
しかし、師団長の小笠原道太郎中将は過ちを犯してしまう。九五式軽戦車という戦力を出し惜しみをしてしまい東捜索隊は壊滅してしまい第一次ノモンハン事件は史実通りの損害を出してしまう。
「何をしているのだ小笠原は!!」
東條らは直ぐに小笠原や歩兵第64連隊長の山県大佐らを更迭しようとした。しかし関東軍が小笠原達を擁護して損耗した第二三師団に第七師団から四個大隊を引き抜く事で矛を収めようとしたが板垣陸軍大臣は激怒した。
「無駄に兵を死なせておいて何たる態度か!! 関東軍は阿呆の集まりか!!」
板垣は関東軍司令官の植田謙吉大将を更迭、後任には畑を関東軍司令官にしたのである。この時、板垣は畑に頭を下げてお願いした逸話もある。
畑は6月5日には関東軍に着任、辻達の前で訓示した。
「今作戦は日本の国家という存亡が掛かっている。諸君らが士気旺盛なのは百も承知ではあるが今は隠忍自重して時を待ってほしい」
畑の訓示に辻達は不満を残しつつも承諾するのである。6月15日に増援の戦力が到着した。第二四師団、第二五師団、第二六師団、戦車第一連隊、戦車第三連隊、戦車第四連隊等々である。ちなみに牟田口は独立混成第一旅団長として自らチハに乗車している。
チハ車への更新は戦車第三連隊が全て更新完了であり他の戦車第一連隊と戦車第四連隊は一個中隊が更新完了していた。更には海軍航空隊も参戦、海軍からは母艦飛行隊の龍驤、赤城、蒼龍、就役間近の飛龍が参加していた。司令官には第五艦隊参謀長だった山口多聞少将が就任した。
(これで舞台は整った)
6月30日、史実のタムスク爆撃が無い中でハルハ河東岸にて日ソ両軍の戦車部隊が衝突した。
「ヤポンスキーの戦車だ、撃て!!」
戦車第四連隊の先頭を走行していたチハにソ連軍の53-K 45ミリ対戦車砲が砲撃する。しかし、チハは対戦車砲弾を容易く跳ね返した。
「な、何だと!?」
「ソ連の対戦車砲だ、撃て!!」
反撃とばかりにチハから75ミリ砲の榴弾が撃ち込まれ対戦車砲部隊はたちまちのうち壊滅しこの日は日本軍が勝利した。
7月2日、歩兵第64連隊がハルハ河東岸のソ連軍に攻撃を開始したがソ連軍の砲兵二個連隊の砲撃に前進が停止、二時間に渡ってML-20 152ミリ榴弾砲が活躍する。夕刻には牟田口少将が自らチハに乗り込んでソ連軍砲兵陣地の突入成功するも十分な自動車が無い歩兵第64連隊らが戦車に付いていく事が出来ずに結局は後退する羽目となる。
そのため玉田大佐率いる戦車第四連隊がバルシャガル高地を戦史上初の戦車部隊での夜襲攻撃を敢行、史実通りの戦果をもたらした。
そして翌3日、戦車第三連隊はソ連軍陣地に正面攻撃を開始した。この時に九四式軽装甲車がMP18の機関短銃を装備する兵士を載せて吶喊するというタンクデサント(戦車跨乗)をしているほどであった。戦車第三連隊は反撃してきたBT-5や装甲車等を75ミリ戦車砲で吹き飛ばしつつ防衛線にて対戦車砲の砲撃が集中する。
しかし、全てチハ車に更新していた戦車第三連隊は榴弾で一つずつ対戦車砲を破壊、ピアノ線鉄条網に履帯を絡め取られていたチハもいたが歩兵を同行していた事もあり当該チハは何とか脱出するのであった。
結果として戦車第三連隊はチハ二両が戦線離脱をしたが(三日後に復帰)ソ連軍はBT-5等の戦車や装甲車30両近くを撃破したのである。
「な、何だこの被害は!?」
ソ・蒙前線集団を率いていたグリゴリー・シュテルンは前線からの被害に驚愕した。
「まさか日本軍は新型戦車を投入したのでは……」
「そんな分かりきった事を言うな!!」
部下の言葉にシュテルンはそう怒鳴る。
(侮り難し……日本軍め……)
そう思うシュテルンである。しかし、シュテルンはジューコフと交代してしまい復讐の機会を逃したのである。また、陸軍は砲兵団を投入した。史実では砲弾は29130発だったが畑等の根回しで実に70000発を用意していた。更に陸軍航空隊の執拗な重砲等の破壊によりソ連軍の76ミリ以上の野砲は65門と半減していた。
「ソ連軍を舐めてはいかん。執拗に奴等を叩きのめせ!!」
畑はそう訓示する。更に海軍航空隊の九六式陸攻がシベリア鉄道を破壊してソ連軍の輸送能力を削減していた事も効いていた。
「クソ、日本軍め」
ジューコフは部下からの報告に舌打ちをする。補給が来ない事でソ連軍は補給の配給しかなくソ連軍の士気は確実に低下していた。
7月7日、日本軍はその見越したかのように夜襲を敢行したのである。
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