第六十四話
上海で戦闘が続く中、山西省北部の太原周辺にて北支那方面軍と中国軍第二戦区が激突――はしなかった。
史実では9月下旬辺りから激突するが将和の情報で北支那方面軍司令官の寺内大将は動く事はしなかったのである。これにより第二戦区との戦闘での死傷者は出なかったがそれは第二戦区側も同じである。
11月5日、上海南方60キロの杭州湾に面した金山衛に第十軍が上陸した。陸軍からの上空支援要請に将和の第一機動部隊は九六式艦戦と九六式艦攻を飛ばして警戒に当たらせた。更に翌6日に「日軍百万上陸杭州北岸」のアドバルーンを上海の街に上げた事で蘇州河で戦闘していた中国軍に動揺が走り9日には退却を始めてしまうのであった。
「一先ずは第十軍と合流だ」
白川はそう呟き、安堵の息を吐いた。上海派遣軍と合流した第十軍だが司令官の柳川中将は追撃を主張するも白川に却下された。
「南京にまで攻め込んだら余計に向こうを追い込むだけだ。今は追撃しない」
白川は将和の情報を考慮しての発言だった。三宅坂の参謀本部も和平交渉を行う為に南京攻略は消極的だった。
実際に11月15日に岡田総理は和平交渉を行う為に外務大臣の廣田弘毅を特使、松岡洋右と吉田茂を補佐として派遣した。しかし、交渉の場で蒋介石は「非は全面的に日本側にある」と強硬に主張し上海戦における破壊された建物や遺族等の補償を要求する有り様だった。廣田らは交渉は重ねたが僅か七日で物別れになるのであった。
(何か逆転できる代物があるのか蒋介石……?)
空母加賀の艦橋でGF司令部からの報告を読んだ将和はそう思う。実際に蒋介石は日本側から和平を求めてきた事で勝利の確率があると踏み第二戦区から兵力を移動させたのである。
南京での防衛戦にドイツ軍事顧問団団長のファルケンハウゼンは難色を示して撤退を主張したが蒋介石はそれを退けた。
交渉の結果、参謀本部は南京攻略を決定。中支那方面軍が編成され隷下部隊には上海派遣軍と第十軍が組み込まれ六個師団、一個支隊、二個野戦重砲旅団、二個戦車連隊となった。また、増援も送り込まれ結果としては九個師団、一個支隊、二個野戦重砲旅団、二個戦車連隊となった。
12月8日、中支那方面軍は史実より四日遅れて南京への攻撃を開始した。白川は予め南京へ軍使を送り包囲しない事を明言した。
「白川司令官は上元門への攻撃は一切行いませんと名言しています。また上元門付近にある下関も同様です。ただし、幕府山は爆撃のみ敢行します」
「……感謝します」
軍使の言葉に唐生智首都衛戌軍司令官はただそう述べたのであった。また、白川は日本軍の虐殺等と言われぬように外国人記者達を招き記者会見をして上元門付近の攻撃をしないと約束した。
そしての総攻撃である。直属部隊の第三飛行団と海軍から派遣された第二連合航空隊(戦闘機48機・艦爆36機・艦攻36機)がそれぞれ指定された中国軍陣地に向けて爆撃を敢行。中国空軍も爆撃を阻止しようと戦闘機を繰り出すが護衛に付いている九六式艦戦の敵ではなかった。
「航空隊が敵陣地を破壊したぞ!! 総員突撃ィィィ!!」
『ウワアァァァァァァァァァ!!』
各師団は航空隊が爆撃した陣地へ突撃を敢行して次々と陣地を占拠していく。そして13日には第十軍が中華門に上海派遣軍は光華門と中山門にまで前進したのである。白川は改めて唐に軍使を派遣して降伏を促したが唐は降伏を拒否した。
「では先に申し上げた通りに上元門付近の攻撃は致しません」
「……感謝します」
唐はそれだけ述べた。14日にそれぞれの門への攻撃が開始された。
「二時方向に敵!!」
「手榴弾投擲!!」
投げ込まれた数発の手榴弾は一瞬の間を置いて爆発する。
「突撃!!」
その粉塵の中を着剣した日本軍兵士達が突撃していく。中国軍はよく抵抗はしたが制空権を取られた上、戦車部隊もいるのでは抵抗の力は徐々に削がれていった。
「上将、このままでは……」
「……やむを得ない、南京を脱出する。直ちに上元門から脱出だ」
「しかし上将、果たして日本軍は……」
「……白川は何度も我々に降伏を促し上元門の攻撃は控えると名言してきた。ならそれを信じる」
部下の言葉に唐はそう答えた。
「軍使を派遣しろ。我々は南京から退却する」
(白川は相応の態度で我々に答えてきた。それなら我々も相応の態度で白川に答えよう)
唐はそう判断した。軍使は直ちに白川の元へ送られ白川も退却を承諾し攻撃を停止させた。中国軍は直ちに上元門から脱出して同行する避難民らと共に避難船へ逃げ込み揚子江を上流に逃走を開始する。
だが事態は深刻な方向へと傾いてしまう。退却を良しとしない一部の部隊が離反して何と南京城内北西部に設置された安全区に逃げ込み徹底抗戦の構えを見せたのである。更に敗残兵が便衣兵と化して南京の何処かに潜伏する事態になってしまったのだ。
「直ちに戦闘を停止せよ!! 民間人に被害を出させてはならん!!」
白川はそう叫び、安全区への攻撃を加える事はなかった。しかし、これに調子に乗ったのか安全区に逃げ込んだ残存兵達は包囲する日本軍にヤジを飛ばす有様である。
白川は廣田を特使として先に南京を脱出して重慶に逃げていた蒋介石と交渉、蒋介石の名で安全区からの退去で合意した。流石に残存兵達も蒋介石からに言われては徹底抗戦は断念して安全区から退去して日本軍の捕虜となった。
白川は捕虜にした大量の中国軍兵士を揚子江対岸で釈放した。蒋介石は釈放された中国軍兵士――特に安全区に立て込もって徹底抗戦をしようとしていた残存兵達を英雄だと褒め称えた。
日本は南京を占領した事でドイツの仲介を元にトラウトマン和平工作が展開していた。しかし翌年の1938年1月15日、海相の米内は交渉の打ち切りを強く主張した。
「中国側の態度は和平解決の誠意の無い事は明らかです。統帥部が外務大臣からの報告を信用しないという事は政府不信任である」
米内の主張に廣田は逆に困惑する。
「米内さん、誠意が無い事は確かですがこれ以上の戦果拡大はやめるべきです」
「いやいや、私は廣田さんを信頼しています。政府不信任なら政府は辞職せざるを得ない」
米内の主張に政府内は混乱を極めた。
「米内ェ………」
空母加賀の長官室で慌てて宮様の使者として内地から視察の名目で飛んできた永野修身聯合艦隊司令長官兼第一艦隊司令長官からの報告に将和は拳を強く握り締めた。
「永野長官、それで政府は?」
「……交渉打ち切りが決まった」
「……クソッタレ……」
宮様らも死力を尽くしたが米内が大本営政府連絡会議にて「内閣総辞職になるぞ!!」と恫喝して多田参謀次長を黙らせたりしている。
「……米内は何れ斬る。その時までは甘い汁を吸わせてやろう」
総長室で宮様は大角に対しそう呟くのであった。1月16日、岡田総理は交渉打ち切りの声明を発表した。
「国民政府の過度な要求に帝国政府はこれを承認出来ず。しかし、帝国政府の外交窓口は何時でも開いている」
岡田総理はそう述べたのであった。1938年3月、台児荘の戦いが史実通りに勃発した。
「となると徐州会戦で完全に国民党軍を包囲殲滅すると?」
「はい、史実と違い師団の投入数に戦車連隊がおります。更に海軍航空隊も参戦してくれます」
陸軍、東條達は盧溝橋事件が発生した時点で中堅師団の二十番台師団が新設されたのである。編成は2月の段階で完了していた。これにより第二一師団、第二二師団、第二三師団が中支那派遣軍に送られていた。また戦車部隊も北支那方面軍、中支那派遣軍にそれぞれ二個連隊が配属されていた。
更に海軍も塚原少将の第二連合航空隊を派遣していた。
「……宜しい。徐州会戦で国民党軍を包囲殲滅出来るならやってみよう」
参謀総長の閑院宮載仁親王は許可したのであった。
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