第五十七話
なんとか開戦日までには間に合いました(白目
「何をしているのだ関東軍は!?」
原が関東軍と奉天軍の軍事衝突の報告を耳にしたのは明け方の0430過ぎだった。
「直ぐに戦闘を停止させろ!! これ以上戦闘を拡大させてはならん!!」
原は直ぐに戦闘停止の指示を出したが関東軍は指示を無視して戦闘を拡大させた。その結果、一日の正午までに北大営、奉天城等が占領された。
「何としても関東軍の侵攻を止めさせろ!! 日本を滅亡させたいのか!!」
原は老骨の身体に鞭を打って四方八方に工作をしたが成果は芳しくなくしまいには二日の0830時には保護国に駐屯していた林銑十郎中将率いる朝鮮軍も越境を開始、瞬く間に満州に流れ込んだのである。
「……終わった……」
一連の報告を聞いた将和は空母加賀の自室にてそう呟いた。そしてスティムソン国務長官によるスティムソン談話を前に関東軍は錦州爆撃を敢行。スティムソン国務長官が激怒してしまう。
「総理、三好少将!! 済まない、関東軍を止められなかった……」
十一月中旬、会合で東條ら陸軍の参加者達が原と将和に土下座を敢行していた。
「……起きてしまったのなら仕方ないです。まだやりようはあるはずです」
「うむ。それに私も総理ではないからね」
事変後、原は責任を取り十一月に内閣総辞職をした。長期政権の原内閣が総辞職した事で野党である立憲民政党の動きが活発化しようとしていたが若槻総裁への大命降下は無く新たに立憲政友会総裁に就任した犬養毅へ大命降下となり十一月十日に犬養内閣が成立していたのだ。
「それで陸軍としてはどうするつもりかね?」
犬養の言葉に東條達は即座に答えた。
「勿論石原達の腹を切らせます。全員銃殺刑でも……」
「いや、それは無理でしょう」
東條の言葉に将和はそう告げる。
「世論が陸軍と関東軍のどれかを信じるかです。新聞報道でしか満州事変を知らぬのです。全てを知っている我々が石原達を切っても世論に陸軍不信の心が残ります」
「むむむ……」
「ではどうするのかね?」
「今は切らないのが宜しいかと。切るのは終わってからが良いかと思います」
「……それしかないか」
犬養は頷いた。1932年2月、関東軍は満州全土をほぼ占領した。3月1日には満州国の建国が宣言され国家元首にあたる執政には清朝の廃帝愛新覚羅溥儀が就いたのである。そして3月9日、首都である新京で溥儀の執政就任式が行われる中、関東軍への大規模な粛清が行われていた。
「関東軍司令官本庄中将、作戦主任参謀石原中佐、朝鮮軍司令官林中将は銃殺刑とする!!」
軍法会議で三人はそう宣告されたのである。三人とも理由は十分にあった。本庄中将は事変の容認、石原中佐は事変の首謀者、林中将は独断で越境した事である。特に林中将は陛下の勅裁を受けておらず国外派兵は統帥権干犯だった。
三人とも反論すら許される事はなく二日後に三発の銃声が鳴り響くのである。その中で、将和の第一航空戦隊(加賀と鳳翔)と護衛の第二駆逐隊は野村吉三郎中将の第三艦隊に臨時編入されて上海沖にいた。所謂第一次上海事変が起きていたのだ。
(此方も史実通りに起きてしまったか……)
将和は加賀の艦橋でそう思った。本来、一航戦司令官は長期にはならないが「航空戦に精通する者が極端に少ない」と宮様等の水面下の活動で長期任官が続いていた。だが長期に続けるのは限界もあるので第一次上海事変後には第三戦隊司令官として内定している。なお、後任は山本少将である。
第三戦隊司令官への就任には他の者達も些か首を傾げたが当の本人は気にしていないので他の者達も声をあげる事はなかった。
ちなみに宮様らとしては将和を航空本部長に持っていきたかったが原則は海軍中将が就任するので次回に持ち越しとなり三戦隊司令官就任は本部長就任への中継ぎだった。
それは兎も角、将和は未帰還機の搭乗員の中に藤井斉大尉がいる事を確認した。
(……五・一五事件のフラグは消えてないというわけか)
溜め息を吐く将和だった。四月、将和は一航戦司令官から三戦隊司令官へ就任。そして五月十五日、総理官邸に武装した海軍青年将校達が雪崩れ込もうとしたが直前のところで横須賀海軍陸戦隊二個小隊が総理官邸の警備に成功。総理官邸を襲撃しようとした第一組九人はその場で取り押さえた。しかし――。
「三好将和に天誅を!!」
「三好将和を討ち取れ!!」
「隊長!!」
「射撃を許可する!!」
史実の第二組、第三組、別働隊の全てが三好将和の邸宅を襲撃しに来たのだ。前回の暗殺未遂事件から日は経っていたが警備の陸戦隊は三個小隊にまで増強され陸軍から譲り受けたマキシム機関銃二丁もあった。邸宅に突撃しようと暗殺隊は全てマキシム機関銃に掃討された。
「生存者の手当てを急がせろ。背後関係を調べるんだ」
そして背後関係で海軍は驚愕する。
「末次も一枚噛んでいたか」
「しかし証拠がありません」
予備役に追われた末次も噛んでいたがその肝心な証拠はなかった。
「宮様……」
「……此処は見逃そう。釣れる時に釣らねば時期を失う」
宮様は苦渋の末、そう決断をするのであった。なお、後の二・二六事件で末次は完全にしょっぴかれるがそれはまだ先の話である。
なお、犯人側は史実通りの禁固15年が言い渡される。
「未遂事件だからなぁ」
新聞報道で将和はポツリとそう呟いた。そして翌1933年2月、スイスのジュネーブにある国際連盟では満州への調査を命じられたリットン調査団の報告が行われていた。
「最初の銃声は日本軍の工作によるものである」
「馬鹿な!!」
報告書に代表の松岡が立ちあがりながら叫ぶ。
「静粛に」
「むむむ……」
米英の代表らにそう牽制され松岡も口をつぐんだ。その後の展開として総会報告書に対する同意確認の結果、賛成42票、反対1票、棄権1票、投票不参加一国となり松岡は退場するのであった。
「……八百万の神々は日本に史実の歴史を歩ませたいのか?……ならば何故俺を此処に呼ばせたんだ……」
「三好少将……」
会合で将和はイギリスのフィリップスから贈られてきたスコッチウイスキーをストレートで飲んでいた。いつもなら水割りか氷のロックで飲んでいたが今日はそんな気分じゃなかった。
「中華民国側が密かに米英と接触していた足取りもある」
「それで非は此方にある……と。ふざけやがって……」
将和は更にスコッチウイスキーをドボドボとコップに入れてこれもストレートで飲み干した。
「まぁ良いです。念のため最悪の想定も考えましょう」
「うむ」
「それで重装甲車の方はどうですか?」
「う、うむ。九〇式重装甲車の評価は中々良いようだ」
「熱河作戦にも遺憾なく発揮した」
史実の九二式重装甲車より早くに制式採用された九〇式重装甲車は部隊にも人気だった。以下の性能はこのような物である。
『九〇式重装甲車
全長 3.96メートル
全幅 1.65メートル
全高 1.90メートル
重量12トン
速度 45キロ
行動距離 200キロ
主武装 八九式式車載13ミリ機関砲×1(車体前面)
副武装 八九式6.5ミリ車載機関銃×1(砲塔)
装甲 20ミリ
エンジン 水冷 V型8気筒180馬力
乗員 3名』
重量が史実より四倍ほど重いがその分、装甲が20ミリと史実の6ミリより遥かに強化されているので国民革命軍や奉天軍の小銃や重機関銃に貫通される心配はなかった。(ただし野砲や対戦車砲は除く)
生産配備は騎兵だったので限定的ではあったが後の九四式軽装甲車と九七式軽装甲車の開発に繋がるのである。
「はぁ……」
「溜め息ばかりだと幸せも逃げていくわよ」
会合からの帰宅後、将和はシャーリーの膝を借りて横になっていた。
「ん。まぁそれもそうだな」
「そう言って太ももを撫でるな」
「えー」
「えーじゃない」
でも満更嫌そうじゃないシャーリーであった。
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