第三十一話
『スペイン風邪』一説によればこのスペイン風邪の大流行により第一次世界大戦の集結が早まったと言われる。そして今、スペイン風邪は猛威を奮っていた。日本でも伊藤達がスペイン風邪の対処に追われていた。
「日本での感染者は?」
「増え続ける一方です。十日後には遣欧軍が帰還しますが既に遣欧軍の中でも感染者がおり、隔離されている状態です」
「公共機関や一般にも手洗いやうがいを徹底だな」
「マスクの配布は?」
「三好大佐の助言で医療機関には配布しています。ですが……」
「何だ?」
「三好大佐もスペイン風邪に感染して隔離されています」
『な、何!?』
加藤海軍大臣の報告に事情を知る者達が絶句するのであった。
「……はぁ…」
戦艦霧島の隔離された病室に将和は寝込んでいた。ベッドの隣には飲料水が置かれており将和の額には濡れたタオルが添えられている。
(スペイン風邪に感染するとか考えてなかった……タミフルとかは未来で飲んでなかったけど、抗体はあると思ってたんだけどなぁ)
将和はそう思いながら欧州を出る時に配布されたマスクを外して水を飲む。
(確かスペイン風邪はA型インフルエンザで2009年の新型インフルエンザの同種だったよなぁ……他にもアジア風邪や香港風邪とかあるけど派生だったけ? んなもん分からん。とりあえずはインフルエンザなんだ、寝るしかないわな)
再びマスクを付けて布団を被る将和だった。そして遣欧軍は日本に帰還するが暫くはスペイン風邪対策で隔離されるが彼等は日本に帰ってきたので一先ずの安心感はあった。その安心感で身体の緊張が途切れてしまい、結果的に遣欧軍は三千名近くがスペイン風邪で病死してしまうのであった。
「お久しぶりです総理」
「御苦労だった三好大佐。具合はどうかね?」
「とりあえずは大丈夫です。他の人よりも免疫力はあったのかもしれません。マスク姿は御勘弁を」
「マスク姿は我々も同じだから構わない」
完治した将和は首相官邸で伊藤らと会っていた。
「山縣さんからある程度は聞いた。まさかニコライ一家を救出するなんてな……」
「敵を騙すにはまず味方からと言います。……まぁまさか全員生きてるとは思いませんでしたが。それで一家は?」
「今は北樺太にいてる。何れは東京に来てもらい今後の処遇だろう」
「案としてはシベリアでしょう。シベリアで国を建国してもらいソ連と日本の緩衝地帯の役目をしてもらう事です」
「ふむ……それが妥当な線だな。イギリスに頼んでアメリカとの共同歩調をせねばな。ウラジオストクに二個歩兵連隊を出しているがドイツの休戦もあるからな」
「イギリスもシベリアでの建国は承認してくれるでしょう」
そう会議する将和達だった。その後、将和は本所区の小さな町工場の隣にある二階建ての家を訪れた。
「貴方!?」
「あ、夕夏……」
「スペイン風邪に掛かったと海軍の方から……」
「そうか、済まないな。もうとりあえずの完治はしているよ」
涙を流す夕夏に将和は頭を撫でる。
「まぁ仲が宜しい事で」
そこへ夕夏の母であるしのが割烹着姿で現れる。
「あ……三好将和です」
「夕夏の母、しのです。さぁどうぞ」
将和はしのに促されて奥に進む。案内された客間には夕夏の父、権蔵がいた。
「……三好将和です」
「……二人で話がしたい」
「分かりました」
権蔵の言葉に将和にお茶を差し出したしのと夕夏は席を外す。数分間、両者は口を開かないが先に開いたのは権蔵だった。
「……夕夏は近所の道場の師匠に鍛えられてな。男勝りなところもあり嫁の貰い手もなかった」
「は……」
「落ち着かない性格でな、戦争が始まると看護婦に志願して欧州に行くと言う事を聞かない子だ。そんな馬鹿娘が海軍の佐官の子を孕んだと手紙を寄越しおった」
権蔵の言葉に将和は内心、冷や汗を流す。恋愛らしい恋愛もせず吊り橋効果じゃないかと疑う程だが夕夏は「恋愛はあった」と否定している。
「……儂にも息子はいた」
「旅順で戦死したと聞いております」
「203高地で息を引き取ったと聞いた」
「………」
「御主、軍だから詳しい事は聞かん。撃墜王という事も聞いている。だからこそ言う、早死にするな、生きて帰れ。夕夏を泣かす事は許さん」
「……約束致します。捕虜になろうとも必ず生きて帰ります」
「……分かった。そう言えば出身は何処かね?」
「は、大阪です」
「両親は?」
「既におりませぬ」
「そうか……」
将和は権蔵の言葉に何か引っ掛かるのであった。
「軍機か?」
「いないですが、新聞対策で話す事は出来ないという方針です」
「……分かった。致し方ないが二人の結婚は認める」
「ありがとうございます」
「それとだ。御主に頼みがある」
「何でしょうか?」
「……勝手なのは承知だが次男か三男が何れ生まれたら成人してから養子にくれないか? 工場の跡取りがな……」
「は、それは構いません」
「うむ、ありがとう」
その後、五人(将弘も含む)で夕食を共にするのであった。
「ふむ、御主は中々飲める口だな」
「は、軍は酒豪が多いもので」
「土産物のブランデーやスコッチは美味い。ガハハハ」
とりあえずの最初の第一印象は成功する。しかし、数年後にそれは崩壊するのであった。
その後、将和は麹町区の貸家を借りて夕夏と将弘の三人で暮らす事になる。ちなみに結婚式も1919年の一月にしており陸海の大臣や伊藤らもこっそりと来ており権蔵らを驚かす一因となる。なお、旧第一航空隊(帰還後に一時解散)のパイロット達も集まり将和と夕夏を祝福するのであった。
そして一月十八日、連合国は中央同盟国の講話条件等について討議するパリ講話会議が開会された。史実と違う点があるとしたら日本は伊藤が代表として出席していた事であろう。
会議は終始、史実通り(四人会議はハブられる事なく五人会議となる)になるがロイド・ジョージのフォンテーヌブロー覚書を日本が支持するとフランスは激怒する展開もあった。更に激怒するフランスにガソリンをぶちまける展開もあった、それが中央同盟国のドイツ代表であるウルリヒ・フォン・ブロックドルフ=ランツァウ外相の発言である。
「ユトランド沖海戦の折、日本派遣艦隊は我がドイツの戦艦に雷撃処分ではなく砲撃処分という武士道精神を見せてくれました。騎士道精神に則り我々ドイツは日本に対してスカパフローに停泊している戦艦若しくは巡洋戦艦の二隻を日本に譲渡したいと存じます」
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