第十七話
1912年(明治四五年)七月三十日043時。開国した日本を僅か四五年という年月で世界列強の地位に確立させた明治天皇は崩御した。
実際には二九日の2243時であるが登極令の規定上、皇太子嘉仁親王が新帝になる践祚の儀式を崩御当日に行わなければならないため、崩御時刻を二時間遅らせた結果である。
陛下の崩御に日本中は悲しみに包まれた。三好もその一人であった。
「……陛下……」
三好は初めて陛下と会った時の出来事を思い出していた。その日、三好は一人で酒を飲む。一人なのに猪口を二人分用意されて一つは酒が入ったままだった。それが何なのかは三好しか知らなかった。
翌日、三好は斎藤海軍大臣に呼ばれ海軍省に赴いた。
「君に渡す物がある」
斎藤大臣はそう言って一枚の紙を三好に渡す。
「これは……?」
「……陛下から君に送った遺言書だ」
「陛下が……?」
斎藤大臣の言葉に三好は首を傾げて文面を一目した。文面は簡素な文ではあった『日本を頼む』としか書かれてなかったがその文は重かった。三好はその文面を見て涙を流した。
「……はい、必ずや日本を……あの史実には致しませぬ」
改めてそう誓う三好だった。その後、嘉仁親王が即位して年号を大正と改元となり同年九月十三日に明治天皇の大喪儀が行われた。
そしてその日、ある陸軍大将がまさに明治天皇の後を追おうとしていた。
「……殉死なさるのですか?」
今まさに妻静子と共に殉死しようとしていた陸軍大将乃木希典に息子の保典が部屋に入ってきてそう告げた。保典は旅順で戦死する事はなく片腕切断の重傷だった。
「………」
「黙っていると肯定と受け取ります父さん」
「……儂は旅順で多くの若き兵達を無駄に死なせた。責任は取らなければならない」
「……逃げるのですか?」
「何だと?」
「死へ逃げるのですかと言ったのです」
「………」
保典の言葉に乃木は何も言えなかった。
「父さん、償いは別に出来るでしょう。生きて生きて生き抜いて後生に父さんが経験したあの旅順の戦を語るべきです」
「………」
保典の言葉に乃木は幾分か黙っていたがやがて口を開いた。
「お前はこの老骨を骨の髄まで搾り取る気か?」
「その通りですよ父さん」
「……クックック、そうか」
乃木の頬に一筋の涙が流れた。
「……済まない。逝くのはもう少し後になる」
「はい……分かりました」
乃木の言葉に妻静子は頷くのであった。これにより乃木夫妻の殉死は回避されたのである。
その後、第二次西園寺内閣で上原勇作陸軍大臣による二個師団増設問題が発生したが山縣等の工作で二個師団の増設はならず、上原の後任には木越安綱が就任しようとしたが西園寺は「引っ張る自信がない」として内閣を総辞職した。
さて、問題は後任の総理大臣である。候補には松方正義が挙がるが松方は高齢を理由に辞退し内大臣兼侍従長の桂太郎が候補に挙がる。しかし桂は四ヶ月前に山縣との確執で現職に祭り上げられていた。
桂は三好と会い、どうするか相談していた。
「どうするかね三好君?」
「……一つ手はあります」
「それは?」
「伊藤さんを総理大臣にしましょう」
「おぉ、伊藤さんをか!?」
日韓併合という事がないので伊藤博文は暗殺を免れ未だに元老で頑張っていた。
「よし、早速やってみよう」
桂の提案の伊藤の総理大臣案は山縣も思案していた事もあり伊藤の総理大臣が決定され、史実にはない第五次伊藤内閣が発足したのである。
一連の行動で桂の首相指名に憲政擁護運動が発生したが伊藤に首相指名が報道されると「憲法の起草した伊藤なら……」と運動は次第に沈静化するのであった。
伊藤は原敬や高橋是清等を閣僚に迎えて(ほぼ史実の第一次山本内閣)、第二次西園寺内閣の教訓として軍部大臣現役武官制を緩和し予備役・後備役でも可にして融和的な政治をとり政局の安定化を図ったのである。
さて、海軍であるが弩級戦艦の河内型の竣工で弩級戦艦の保有に成功したが国力を考えると弩級を越える超弩級戦艦の建造をイギリスに発注する事になった。
これが超弩級巡洋戦艦金剛となる。なお、技術士官等は史実より多くイギリスに派遣されて日本の造船技術は史実より引き上げられる。
発注は計画段階からヴィッカースと決められていたので裏工作は無く、松本和が追放される事はなかった。しかし、シーメンス事件本体は防ぐ事が出来ず、斎藤大臣が責任を取って辞職し予備役に編入する事になる。
それは兎も角、三好は東雲型駆逐艦不知火の艦長をしていたが1913年四月には創設したばかりの横須賀海軍航空隊に転任した。海軍はモーリス・ファルマンMF.7の浮舟型を三機、陸上機型三機を購入しており三好達パイロットは両機を交互に教官から訓練するのであった。
そして翌年の1914年、海軍は新たにモラーヌ・ソルニエHを十機購入して三好達パイロットは訓練するのである。その間にもシーメンス事件が発覚して斎藤大臣は責任を取り海軍大臣を辞職し後任には山本権兵衛が就いた。山本は汚職を払拭させるため徹底的に改革するのであった。
その間ではイギリスから回航された金剛は横須賀工廠にて小規模の改装が行われた。この改装には防火シャッターと注水機能、隔壁の追加が行われた。これらの改装には理由がある。
1910年、戦艦初瀬が舞鶴にて火薬庫が爆発して大破着底し1912年には史実より早くに横須賀港で巡洋戦艦に類別されたばかりの巡洋戦艦筑波が火薬庫爆発で大破着底していたのだ。
二艦は今なお修理中であるが海軍は火薬庫爆発を恐れ全戦艦に防火シャッター、注水機能、隔壁の追加を施した。金剛も例外ではなかったので火薬庫の管理はより厳重になるのである。
また、二番艦比叡、三番艦榛名、四番艦霧島も建造中ではあるが同様の追加工事をしていたのである。
そして1914年六月二八日、オーストリア領サラエボにて数発の銃声が響き渡る。人々の悲鳴を他所に撃たれたオーストリア=ハンガリー帝国の皇帝・国王の継承者フランツ・フェルディナント大公は同じく腹部を撃たれた妃ゾフィーに声をかける。
「ゾフィー、死んではいけない。子ども達のために生きなくては……」
二人はボスニア総督官邸に送られたが、二人とも死亡という結果になってしまった。サラエボ事件と呼ばれるこの出来事はヨーロッパを約四年にも渡る人類史上最初の世界大戦への引き金となるのであった。
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