第十六話
1911年二月、日本とアメリカは日米通商航海条約が調印され同年四月に発効された。これにより日本は税権(関税自主権)を回復した。これに尽力したのが第二次桂内閣で外務大臣に復帰した小村寿太郎である。
「小村は痛恨のミスをしたが最後はやり遂げてくれるだろう」
桂は何とか小村に最後に一矢報いさせようとしていた。小村は病魔に侵されていたが最後の御奉公としてアメリカやイギリスとの交渉で関税自主権の回復させたのであった。
そして小村は十一月二六日、満足したように満五六歳で没したのである。それを聞いた三好は「やはり覚悟を決めた男は違うんだな……」と呟いた。
八月三十日、第二次西園寺内閣が成立する。ちなみに韓国併合はされていないので伊藤博文がハルビンで暗殺される事はなかった。そのため元老間での権力均衡は崩れず、山縣有朋の発言力が増大する事はなく陸軍の増強圧力が高まる事はなかった。
そして三好は斎藤海軍大臣ととある料亭にいた。
「河内の竣工は来年になるだろう」
「でしょうな」
河内型戦艦は日本が初めて建造する弩級戦艦だった。性能は以下の通りである。
『河内型弩級戦艦
排水量
23000トン
全長170メートル
全幅26メートル
機関
宮原式石炭・重油混焼水管缶
ブラウン・カーチス式直結タービン二基四軸推進
最大出力三万五千馬力
最大速力23.2ノット
兵装
30.5サンチ五十口径連装砲五基
15.2サンチ単装速射砲十基
以下略(史実と同じ』
河内型は主砲を五十口径三十.五サンチ連装砲で統一されていた。また主砲配置は海軍初めてとなる背負い式であり前部一番、二番砲搭は背負い式、真ん中の三番砲搭は後ろ向き、後部の四番、五番砲搭は前部と同じく背負い式であった。背負い式はアメリカ海軍のデラウェア級戦艦やフロリダ級戦艦が背負い式砲搭だったので諸外国も特に気にする事はなかった。後に河内型の砲搭配置は超弩級戦艦扶桑型に受け継がれていくのである。
「それと……陛下はやはり……」
「……このままいけば来年の七月には……崩御致します」
陛下は周囲からの体調への配慮を拒否していた。三好が面会をして「何とか体調だけは気を付けて下さい」と言っても「済まぬ。朕の運命が決まっているならばその運命まで朕がすべき事を致す」と丁重に拒否をしたのだ。
「……分かった。わざわざ済まなかったな」
「いえ……それと別の事で御願いがあります」
「何かね?」
「来年の練習艦隊の航路変更をしてほしいのです」
「……タイタニック号の沈没というやつかね?」
「はい。未曾有の海難事故ではありますがたまたま練習艦隊の我が海軍がその近くを通り救助すれば……」
「日本の国際評価は高まるわけか……」
「事故をだしにするので後ろめたい気持ちではありますが……それでも死者は幾分か減ると思います」
「……分かった。必ず出すよう手配しておく」
「ありがとうございます」
「それと君も練習艦隊に乗艦してもらう」
「ア、ハイ」
斎藤の英断に三好は頭を下げるのであった。そして1912年(明治四五年)二月、栃内曽次郎少将とした練習艦隊が出港した。参加艦艇は装甲巡洋艦吾妻と八雲、防護巡洋艦吉野である。そして教官として三好が乗り込んでいたが、彼の班員には山口多聞、大西瀧治郎がいた。
「……マジで?」
班員書類を見た三好は唖然としたが気にしない事にするのであった。練習艦隊は史実とは少し異なりハワイ・ブラジル・アメリカ東海岸・イギリスのルートだった。これは斎藤大臣が「世界一周も悪くない」と多少強引ではあるが進められていたのである。
そして四月十四日の2250時、練習艦隊はアメリカ東海岸からイギリスに向かう途中のニューファンランド沖で高さ二十メートル弱の氷山を発見した。
「艦長、通信を周辺海域に飛ばせ。氷山があるので警戒されたしとな」
栃内はそう指示を出す。周辺海域は霧も出ていたが千島列島や東北沖合い等の演習で栃内は霧にある程度は馴れていた。
「……万が一もある。速度を少し落として氷山周辺十五海里を三時間程警戒しよう。氷山に近づけば発光信号で知らせればいい」
栃内はそう指示を出す。彼にしてみれば氷山が危険という認知しかなくその事態は直ぐに訪れたのである。
「司令官、客船が!!」
「何!?」
2340時、豪華客船タイタニックは氷山と衝突した。タイタニックは練習艦隊からの発光信号に気付き氷山を視認したのが距離五百メートルだった。この海域は世界的にも海霧が発生しやすい海域としても有名だったのだ。
「客船の救助に向かう!! 総員起こーし!!」
「総員起こーし!!」
三隻の練習艦隊は急いで停船しているタイタニックの救助に向かう。
「舷梯下ろせ!!」
「ですが三好教官。まだ上から指示が……」
「準備くらいは出来るだろ!!」
山口の言葉に三好はそう一喝して舷梯を下ろす準備をする。三隻は距離五百で停船して全てのカッターを下ろしてタイタニックに向かうのであった。
結果的に言えばタイタニックの乗員乗客は客船アパラチアも加わった事を含むて史実より多くは救えた。しかし四月の大西洋は気温が低く海の海水気温は零下二度である。
史実では海に投げ出された人々の大半は低体温症や心臓麻痺等でほとんどが死亡した。しかし、この世界ではタイタニックに残ったタイタニックの設計者であるトーマス・アンドリューズ、スミス船長や機関長を含む機関部員や乗員乗客合わせて800名弱が死亡したのである。
「それでも救えた者達がいた」
三好は救助後、自室でそう呟いた。史実では乗員乗客1513人が犠牲になっていた。今回の事を考えれば史実より半分近くは救助出来た事になる。
「……安らかに眠って下さい」
練習艦隊は航路を一路アメリカに向けて航行していた。三好は艦尾でタイタニックが沈没した海域に向かって頭を下げるのであった。
タイタニック沈没は全世界に発信され練習艦隊の救助活動に全世界が感動をした。
「トーゴーの息子達が人々を救う」
「ジャパンが手を差し出した」
各国の新聞は一面に練習艦隊の記事が飾り、練習艦隊から撮影された沈没していくタイタニックの写真が掲載される。しかし、時代はまだ差別がある時代であり「奴等が沈めたのではないか?」「練習艦隊はわざと知らせなかった」等と書き立てられたが直前まで氷山発見の電文を放ち付近を航行する客船に警戒を促す電文を発信していたのでそのような噂は直ぐに消えるのであった。
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