表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
ネストキィレター  作者: 光太朗
ネストキィレター
19/20

ネストキィレター 4

「十三年分の時を……戻す、ということか」

 ユイファミーアが、信じられないというように、つぶやく。

 それを、ひどく冷静な気持ちで、スノウは聞いていた。

 十三年前にエスメリアが口にした、決意。その決意は、形を変えることなく、ずっと彼女の胸に存在し続けていた。

 そのためだけに費やされた彼女の日々は、皮肉なことに、それが実際に可能なのだと彼女に教えるばかりだった。スノウには彼女を止めることができず、また、彼女の心を変えることもできなかった。

 文字人もじびとの魂は、何度も、スノウに語りかけてきた。

 彼女を止めろと、命じていた。

 ネストキィレターの解放自体は、文字人もじびとの悲願だ。しかしその先に、すべてをゼロに帰すようなことがあるならば、それは阻止しなくてはならないことだった。

 そのために、なにがあろうと彼女についていけと、魂はスノウに命じた。

 しかしスノウは、それに応えたことはない。

 スノウは、彼女を止めるのが目的だなどと、思ったことはない。

 スノウにとっては、エスメリアがすべてだった。

 それ以上のものなど、存在しなかった。

 見つめる先で、エスメリアが、ネストキィレターを読み上げる。古代からずっとこの土地を守ってきた文字人もじびとの魂を、自らの身体に移そうと、歌うように静かに、読んでいく。

 赤く光り輝くその姿は、あまりにも、美しかった。

「おい、スー」

 隣で、ジキリが怒鳴りつけてくる。邪魔をするなと、スノウは思った。

 聞こえないではないか。これが聞けるのは、もしかしたら、最後かもしれないのに。

「止めないのかよ、スノウ! あんたとエスの絆とか、なんかそんなもんあるとも思えねえけど……築き上げてきたものぜんぶ、なくなるんだろ! なんとかしろ、阿呆!」

 ずいぶんと失礼な物言いだ。

 スノウは、エスメリアを止めたくはなかった。

 スノウは見てきたのだ。幼い日から、エスメリアがどれだけ悔やみ、苦しみ、そして努力してきたのか。

 スノウには、彼女を否定することなど、できなかった。

「決めるのはあくまで、エスメリアだ」

 それは、彼女になにもかもを委ね、投げ出しているというのとは、少し違っていた。

 ロイツノーツで生まれた、新しい命。あの日からの前進。変わろうと足掻く、この国。

 きっと、エスメリアはわかっている。

 スノウがいうまでもない。

 他ならぬ彼女が、誰よりも一番、わかっている。

「そうじゃねえだろ!」

 しかし、ジキリは下がらなかった。己の筋肉で、血の縛めを解こうと力を込めていく。目に見えない束縛にも関わらず、皮膚が裂け、悲鳴をあげているのがわかる。

 とうとうジキリは、自力で拘束から抜け出した。右手を振り上げて、その勢いのまま、スノウを殴りつける。

「──っ! 貴様!」

「女ってのは、わかってても形で欲しい生き物なんだよ! おれが唯一知ってる女心だ、覚えとけ!」

 スノウは、呆然と、殴られた頬を押さえた。

 激昂するジキリのいる場所が、自分とは違う世界のように感じられた。

 己の胸に、触れる。

 形にすることが、できるだろうか。

 いまからでも、遅くはないだろうか。

 エスメリアの手による拘束など、本当はスノウには効力を示していなかった。顔を上げ、エスメリアの後ろ姿を見つめる。

 読み上げられたネストキィレターが、石碑から浮き上がるように、膨張していった。暗いだけだった空間に、赤が広がっていく。数え切れない魂の、血の色だ。空間を染め上げ、視界のすべてを、彩っていく。

「許しを乞うのではない」

 光の中で、もう姿は見えなかったが、そう声を発したのはユイファミーアだ。

 彼女の声ははっきりとしていた。自らの強い意志で、続ける。

「すまなかった」

 エスメリアは、振り返らない。

 光り輝く文字が、彼女の肢体を赤に染めていく。拠り所を移そうと、歌い踊るように、空間を渡っていく。

 スノウは、床を蹴った。

 光の中、エスメリアの姿だけは、はっきりと見えた。

 彼女の元へ行き着くと、十三年前のあの日のように、膝をつく。

 あの日の幼いエスメリアは、なにもかもがなくなった場所で、ただ一人、立ち尽くしていた。

 強く思った。

 彼女のそばに、いたいと。

 あの日からまったく変わらない心と──それよりもずっと大きく育った心で、真摯に、頭を垂れる。

 意を決して、顔を上げた。こちらを見もしないエスメリアの、その長い黒髪を、それでも見つめた。

「私は、あなたと離れたくありません」

 それは十三年間伝え続けた、偽りのない思いだった。

 しかし、それだけが、すべてではない。

 言葉にならない。積み上げてきた月日のなかで、感じたこと、育ったもの、そんなものはいまここで、伝えきれるものではない。

「あなと決して、離れません。だから、エスメリア──あなたの好きなように、してください。なにをしてもかまわない。十三年の時を戻してもいい、この国そのものを滅ぼすことだってなんだって、あなたが本当に望むのならば、そうすればいい」

 光は、収まることはなかった。空間そのものの許容量を超えるのではないかというほどに、ふくれあがり、輝きを増していく。

 光の音だろうか。ひどく遠くで、同時に頭の中で、音が鳴り響く。悲鳴のような高い音。あまりにも哀しい音。

 視覚も聴覚も、なにもかもが限界を迎えようとしているのが、わかった。

 広大な王都を守り続けてきた魂が、縛めを解かれ、放たれたのだ。

 それでもエスメリアは、揺らぐことなく、そこにいた。

 スノウの目には、はっきりと見えていた。

 そのうしろ姿が、ゆっくりと、振り返る。

 きつく結んだ唇が、本当は泣きそうになっていることを、スノウは知っている。

「私はあなたを、守ります」

 スノウは嘘などいっていなかった。この場をどうにかするために、出任せをいっているのでもなかった。

 伝えなければならないのは、一つだけだ。

 立ち上がり、エスメリアを抱きしめた。自分と比べてしまえばあまりにも小さな彼女を、胸の中に押し込める。

「あなたがどんな決断をしようとも、ついていきます。過去だろうと未来だろうと、どこにでも。必ず、絶対に」

 強く強く、力を込める。

「あなたを一人には、しません」

 腕の中で、ほんの少しだけ、エスメリアが動いた。

 小さく、まるで力が抜けたように。

 そっとスノウの身体を離し、顔を上げる。見つめた瞳が、泣き笑いように複雑に、諦めに似た色を帯びて、ほんの少しだけ細くなる。

「知ってるわ」

 光が、止まった。

 ネストキィレターのすべてが、エスメリアの身体へと、移った瞬間だった。

 まるで世界そのものが静止したかのような一瞬、それを境にして、じわりじわりと、しかし確実に、空気が重みを増していく。

 いままでは入り込むことのなかった霧が、もうこの瞬間から、王都を浸食していこうとするのがわかる。

 エスメリアは、指を噛んだ。皮膚を引きちぎるかのように、強く。

 流れた血で、宙に文字を描き出す。

「我が名は、エスメリア──」

 そうして、世界に、命令を下した。













評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
このランキングタグは表示できません。
ランキングタグに使用できない文字列が含まれるため、非表示にしています。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ