ネストキィレター 3
文字に触れた喜びを、覚えている。
エスメリアはそれを、昨日のことのように思い出すことができる。
神の文字。国を、町を、人を守る、文字。
それを見ることができるのは、教会の中、祈りを捧げるそのときだけだった。
それ以外では一切禁じられ、もちろん生活の中で用いることもなく、そうしたいと思うこともなかった。
しかし、研究という名目で選ばれた数人の子どもたちは、文字に触れることを許された。
海を越えた遠くの国から来たのだという学者が、文字を教えてくれた。自分はこの国の生まれだが、よその国で学んでしまったため、もう他の文字を最初に覚えてしまったのだと、きっとそれでは意味がないのだと、そういっていた。
だから君たちは特別なんだよ──その言葉に、疑問など持たなかった。
ただ誇らしく、期待と希望に満ちていた。
文字を覚え始めたころ、白い影を見るようになった。密かにスノウと名付けた、美しい人の影だ。それは自分のように、ネストキィレターを理解し始めた子どもには、皆見えるようだった。
あるとき、スノウを探し求めるうちに、町の地下に迷い込んだ。そこはまるで秘密基地のようで、幼いエスメリアの胸が高鳴った。そうして、探検するうちに、赤い壁を見つけた。
そこには、ネストキィレターが記されていた。
学ぶ前ならば、どう感じたのだろう。神々しさに感動し、いつまでも見入っていたのだろうか。あるいは恐れ多くて、すぐに大人に知らせたのだろうか。
すべての文字を読めるようになっていたエスメリアは、そのどちらでもなかった。
偶然とは思えなかった。いまの自分ならば、これを読むことができる──教本にあるような文字の羅列ではなく、神が書き残した文字を、読み上げることができる。
好奇心だった。
探求心だった。
興味、関心、意欲──知ろうとする姿勢は、讃えられるべきものだと、エスメリアは思っていた。そしていまこうして、ネストキィレターのもとに導かれたことは、偶然などではないと感じた。
無邪気、という言葉が、的確だったろう。
エスメリアは、それを、読み上げた。
「かみの もじにより
このちは
まもられる
ふれては ならない
もじは
かみの かごであり
ひとの きんきである」
読めたという感動と、それだけかというかすかな落胆。
この国の人間が、呪文のように唱えていることだ。
でも、もう、触れてしまったの──むずむずして、笑みをこぼす。こうして神の文字を実際に読んだのは、自分が初めてなのではないだろうか。
しかし、異変はすぐに起こった。
文字が、赤く光り輝いた。それは溶け出すように形を変え、まるで生きているかのように、壁の上で動き出す。
エスメリアは、身動きすることができなかった。目を離すことすら、できなかった。気味が悪いとは思わない。逃げ出したいようなものでは、決してなかった。
赤い文字が、新たな文字を描き出そうとしているのが、わかった。その文字の美しさに、魅入られる。
先ほどよりもずっと多くの文字が、壁に刻まれていく。
赤い、赤い文字。
「このちを
まもる
もじびとの たましい
ここに ねむる」
吸い込まれるように、エスメリアは読み上げていた。
「あくまの いぶき
いまわしき きりを
ふせぐため
このちを まもるため
ここに ねむる
いくひゃくの たましい
そのうえに
われらは いきる」
幾百の、魂──エスメリアは、首を傾げた。
我らという言葉に、眉をひそめる。
文字人とはなんだろう。
ここに眠る……眠る?
「その上に、生きる?」
気づいてしまいそうになっている自分がいた。
しかし、知ってはならないのだと直感する。
これは、神の文字のはずだ。
ここは、神に守られた地のはずだ。
気づいてはいけない。
おそらくこれは、読んではいけないものだったのだ。
「文字は……人の、禁忌」
──なぜ?
なにを隠している?
読んではいけないのは、なぜ?
読んでしまうと、なにが、起こる?
「…………!」
文字が、溢れ出す。光がふくれあがり、エスメリアを飲み込み、広がっていく。それはどこまでもどこまでも、町をそのものまでもを覆い尽くしていく。
*
「やめなさい」
もう一度、エスメリアはいった。
赤い壁の前に立つルーガルドがなにをしようとしているのか、手に取るようにわかった。
それは、かつての自分と同じ姿だ。
吐き気がするほどに、彼は自分と似ていた。
「中途半端な知識で読み上げると、王都がまるごとなくなるわよ」
挑発ではない。冷静に、忠告する。
しかしルーガルドは、恍惚とした表情で、静かに笑んでいた。
「赤い魔女になる……ですか?」
そう問い返されることは意外ではあったが、理解しているという意味では、救いがあった。エスメリアはうなずく。
「そう。わかっているのなら、やめなさい。解放の過程で霧を防ぐ力が弱まって、一気に飽和状態になる。あっという間に、はち切れるわ」
「中途半端な知識なら、でしょう。僕は違います、エスメリアさん」
ルーガルドは、自分こそが特別だと信じているようだった。
「あなたもそうでしょう? だから、ここに来たのでしょう? ネストキィレターは、ただ解放するだけではなく、自分自身の身体に移すことができる。そうやって、そこに封じられた力をも、自分のものにできるんですよね?」
違うといえば、ルーガルドは止まるのだろうか──考えるまでもなく、答えは否だった。
おそらく彼は、知っているのだ。
彼の表情は、いままでに見たどの姿よりも、自信に満ちあふれていた。
「僕は、なにもかもを、理解しました。以前は読めなかったが──それでも僕は、見ていたんだ。ネストキィレターで記された書物を、何度も、何度も。そこにはすべて書いてありました。僕は、この力を完璧に使いこなすことができます。僕なら、この国を、守り抜くことができるんです」
「……書物」
エスメリアは舌打ちした。もしかしたらあるのではと思っていたが、やはり王族は、歴史と知識を所有し、独占していたのだ。王位継承者は、母語をカイミーア語にすることなく育てられ、第二言語としてカイミーア語を習得し、その後ネストキィレターを学んだのだろう。そうして、代々の王にだけ、歴史の真実が引き継がれてきた。
「ギャラリーがいること、忘れんなよ。文字人の力ってのは、なんだ?」
場にそぐわない飄々とした声で、ジキリがいった。エスメリアはぎくりとして、振り返る。
スノウとジキリが、すぐうしろに立っていた。追ってきたことは知っていたはずだったが、意識の中になかったのだ。
「エスメリア、だいじょうぶですか?」
この期に及んで、スノウは心底心配そうな顔をしていた。だいじょうぶもなにもないだろうと、エスメリアは呆れる。
なにをするために、ユイファミーアやスノウを出し抜いてまで先に来たのか、わかっているはずだった。他の何でもない、ただ自分の目的のためだけに、ここに来たのだ。
本当に──踏んでも踏んでも、潰れない。
エスメリアは、複雑な思いに囚われた。心のどこか、かすかに安堵してしまっている自分を叱咤する。
「あんただろ、賢い王子さまってのは。事態の飲み込めない一般人に、ぜひご教授願いたいんですけどね」
ジキリがそっと目配せをしてくる。つまり、気を逸らしてやるからなんとかしろ、ということなのだろう。
この男はどこまで知っているのだろうかと、エスメリアはふと考えた。スノウが話すとも思えない。きっと、なにも知らないのだ。
それなのに、こうして、ここにいる。
スノウもジキリも、エスメリアの理解の範疇を超えていた。まったくわからなかった。
なぜ、そこまでするのだろう。なんのために。
「どうして僕が、そんなことをしなくてはならないのですか」
しかし、ルーガルドはあっさりと突っぱねた。まったくもっともな返答だったが、ジキリは引き下がらない。
「興味があるだろうがよ、王子さま。おれがこの地下にいる間に、いきなり壁が全部なくなったんだ。残ってるのは、あんたの目の前にあるそれだけだ。それとも……残ったんじゃなくて、出てきたのかね」
「なるほど、巻き込んでしまったのですね」
ルーガルドは眉を下げた。どこまで本気なのか、慇懃無礼な仕草で頭を下げる。
「それは、申し訳ありませんでした。お怪我がなくてなによりです。壁は、僕がネストキィレターの力を使ったことで、消えてしまいました。ここまでするつもりではなかったのですが……まだ、この素晴らしい力を、使いこなせないのです」
「壁を、消した?」
エスメリアは聞き返した。
ユイファミーアが、ネストキィレターを読むことができれば文字のもとへたどり着けるといっていた。これがそういうことなのだろうと思っていたが、どうやらそうではないようだ。
ネストキィレターを理解したルーガルドが、自らの力で消し去ったのだという。
この広大な地下の、すべての壁を。
だがそれは、あまりにも危険なことだった。
この小さな王子は、わかっていないのだろうか。
「ネストキィレターの使用は、命を削る」
エスメリアのいおうとした言葉は、背後から聞こえた。
ユイファミーアだった。いつの間にか、追いついてきたのだろう。護衛の姿がないところを見ると、一人で追ってきたのだろうか。
「もう二度と、文字の力を使うな、ルーガルド。そんなことをしていては、すぐに命が尽きる」
「ユイファミーア様」
わざとらしく、ルーガルドが声をあげた。顔を輝かせ、歓迎するように両手を広げる。
「こんなところまで来てくださったのですね。良かった、ちょうど、お話ししたいことがあったのです」
「姉と呼べといっているだろう、ルーガルド。話したいことがあるのは、私も同じだ」
ユイファミーアは一歩も引かなかった。真っ直ぐ弟に向かって歩を進め、ジキリとスノウと、エスメリアの前に出る。
「では、先に聞きましょう、ユイファミーア様」
ルーガルドは余裕を持って、微笑んでる。エスメリアはユイファミーアに譲るように数歩下がると、そっと指先に歯を立てた。身体のうしろで、文字を描き始める。
ユイファミーアは、大きく息を吸い込んだ。
「おまえは、私の弟だ。だがこの国の王になることは、永遠にない。恥を知れ、愚か者」
声は、地下に響き渡った。
ルーガルドの顔が、みるみるうちに赤く染まる。
「──僕は! あなたを、越えた! 文字の力さえ得られないあなたに、そんなことをいわれる筋合いはありません!」
「いいわね、お姉さん。いまのはちょっと、格好良かったわ」
エスメリアは笑んだ。血で描いた文字に、力を注ぎ込む。
「見習ったらどう、王子さま?」
文字は一筋の光となって、ルーガルドへと伸びる。ルーガルドが身構えるが、彼の身体を突き抜けて、巨大な石碑を包んだ。赤い光はすぐに白い膜となり、文字を覆い隠す。
「くだらないことを!」
「それはどうかな」
光に紛れるようにして、ジキリが躍り出ていた。うっすらと赤く色づいた透明の縄を手に、ルーガルドに飛びかかる。
「──っ?」
ルーガルドが目を閉じる。所詮は子どもだ。戦い慣れているわけでも、ネストキィレターの力を使いこなしているわけでもない。
一瞬にして、ルーガルドの小さな身体は、光の縄に縛り上げられた。鋭い目で、ジキリとエスメリアを睨みあげる。
「こんなもの……」
縄をほどこうというのだろう。身体と一緒に縛られた手で、文字を描こうと身をよじる。しかし、縄はより深く食い込んでいくばかりだ。
「その縛めが解けると思うな。貴様のような付け焼き刃では、本物の文字の力を越えることはできない」
ひどく冷たく、スノウがいった。
「私は、文字人だ。エスメリアによって解放された、現在に生きるただ一人の。貴様のような身勝手な人間を見ていると、気分が悪くなる。容赦はしない」
ルーガルドが、目を見開く。その目で、スノウを映す。
ルーガルドにはわかったのだろう。文字を理解しているのならば、エスメリアのように、文字人の魂が見えているはずだった。それらが皆一様に、生気を吸い取られたように薄い色素で、白い髪をなびかせていることを知っているはずだった。
急に熱が冷めたかのように、ルーガルドはうなだれた。
首を左右に振って、そして、動かなくなる。
「もう、いいだろう、ルーガルド」
感情のない、おそらくはあえて取り去った静かな声で、ユイファミーアがいった。
「終わりにしよう」
終わり。
その言葉に、エスメリアはユイファミーアを見た。
終わりにするとは、どういうことなのだろうか。
なにをいっているのだろうか。
こうして、この国の王たちは、すべてから目を逸らし続けてきたのだろうか。
エスメリアは、文字人ではない。
スノウや、文字人の魂が思う本当のところは、きっと永遠に、わからない。
しかし、彼らの生き方に吐き気を覚えるのは、同じだ。他人事ではない。なによりも、自分自身に対して。
どうしても、許すことができないのだ。
「……るさい」
震える声で、ルーガルドが呻いた。
もしかしたら、泣いているのかもしれなかった。うつむいた顔は見えなかったが、声が湿っていた。
「うるさい……」
今度ははっきりと、いう。
ジキリが胡散臭げに、ルーガルドの顔をのぞき込む。
「うるさい、うるさい……うるさい……」
繰り返す。何度も何度も、繰り返す。それは、この場の誰かに対しての言葉ではないようだった。ルーガルドは顔を上げ、ユイファミーアを見た。
「姉さんには、聞こえますか。姉さんには、見えますか。これが、文字人ですか。これが、僕たちが踏みつけてきた、命なのですか」
声は震えていたが、涙は流れていなかった。ただその表情は、涙で濡らすよりもずっと、確かに泣いていた。目が、眉が、口が、奇妙なほどくしゃくしゃに、歪んでいた。
「ネストキィレターを理解してから、ずっと。ずっと、僕を追ってくるんです。声は聞こえない、でも叫んでる。僕にはわかる。これは魂だ……文字人の、魂だ」
エスメリアは、瞳を伏せた。
文字人──この地で最初に文字を生み出した、ネストキィレターの力を自在に操った、古代人。
彼らは、霧を防ぐための手段として、その命のままに、封じられた。
ネストキィレターの使用は、命を削る。
文字の赤は、彼らの血。
強大な力は、命そのものだ。
「なにが、神の文字……」
ルーガルドの声は、悔しさに満ちていた。
「なにが、神の加護だ。つまり僕たちは、侵略者なのでしょう? この土地を乗っ取って、文字人の力をその命ごと奪い取って、そうしてその上でのうのうと、生きてきたのでしょう? 文字は禁忌? 馬鹿な! ただ、隠してきただけだ! 数え切れない命の上に立っているのに、それを神の加護だと大嘘で固めて、罪悪感から逃れてきただけだ! この国の下で眠る、たくさんの命は……!」
ぼろりと、涙がこぼれ落ちた。
「……きっと、恨んでいる。こんな国は滅んでしまえばいいと、きっと、思っている……」
ルーガルドが、嗚咽をあげる。
エスメリアは小さな王子を、冷たく見据えた。
暴走したかと思えば、こうして泣きじゃくる。
愚かにも、ほどがある。
被害者のつもりなのだろうか。
自分がやろうとしたことを、棚に上げて。
「恨んでいるでしょうね」
エスメリアはルーガルドから、スノウへと視線を移した。
文字人の魂は、この国を恨んでいるだろう。
そんなものは、あまりにもあたりまえだ。
「ねえ、スノウ」
十三年前、一生あなたについていくとかしずいた、スノウの姿を思い出していた。
私を解放してくださったこと、心から感謝します──スノウは、そういった。
代償のように身体に刻まれた、消えることのない赤い文字。こうして姿形をとどめることができたのはスノウだけで、それは偶然以外のなにものでもなく、他の魂はすべてエスメリアの身体に宿ったのだと、彼は説明した。
それはあなたを、苦しめることになるでしょう──
遠いあの日、泣きじゃくるエスメリアに、スノウは膝をついた。涙で濡れた小さな手に、口づけをした。
私は、あなたを、守ります。いつか消えてしまうその日まで、一生、ついていきます。きっとそのために、私だけがこうして、命を得たのです──
違う、とエスメリアは思った。
そうではない。
助けたのではない。
滅ぼしたのだ。
ただの好奇心で、町を、そこに住まうすべてを、なにもかもを、消し去ってしまったのだ。
彼は一生ついてくるのだろう。
そうして自分を、責め続けるのだろう。
エスメリアにはそれが、わかっていた。
だからこそあの日、決意を口にした。
この町と同じように、文字の力がこの国のいたる所に眠っているというのなら、その力すべてを、何年かかっても必ず、自分のものにしてみせると。
そして、いつか、必ず──
「王子さま。あなたの気持ちはわからないではないけど……でもそれをしたのは、あなたではない。もう、終わったことだわ。文字人が望んでいるのは、ただ、この国から解放されることだけ」
エスメリアは優しく、しかし突き放すように、ルーガルドにいった。
スノウが、なにかをいおうとするのがわかる。しかしそれを遮るようにして、エスメリアは続けた。
「あなたたちの事情は、どうでもいいわ。せっかく見つけたんだもの、わたしはネストキィレターを、この場から解放して、自分のものにする。それが王の望みでもあるのよね?」
一歩一歩、悠然と、エスメリアは歩を進めた。強く噛んだ指先からは、依然として血がしたたり落ちていた。彼女の血は石の床を伝い、スノウとジキリと、ユイファミーアを縛り付けていた。エスメリアの血が、空間に命令を下したのだ。ただの一歩でさえ、動くことなどできない。
「赤い魔女よ」
それでも、ユイファミーアが口を開く。
「教えて欲しい。なぜ貴女は、この国の被害者でありながら、国を救ってくれるのだ。ロイツノーツ以降……間に合わなかった町を除いては、あなたがすべて、ネストキィレターを解放したのであろう。まるで人を守るように、数日をかけて、──十年前のカルツ、七年前のチュリアル、三年前のタリアソルフ。少なくともこの三つの町のネストキィレターを、町への危害を最小限に抑えながら解放してくれたのは、貴女なのだろう? ロイツノーツのように一瞬で解放することもできたのに、そうはしなかったのは、何故だ?」
エスメリアは答えなかった。ただ、どうしてそんなことまで知っているのかと、かすかな疑問が生まれた。
そして、納得する。文字人の魂に会ったのだと、ユイファミーアはいっていたのだ。
ロイツノーツに住まうトリナンも、事情を知っている様子だった。ではこの王の口から、聞いたのだろうか。
「文字人たちは、感謝していた。貴女のおかげで、霧を防ぎ続ける苦しみから解放されたのだと……だから私は、踏み出さねばならないと、決めたのだ。すべての魂を、解放するために」
続く言葉に、思わず笑った。
感謝。
それほどそぐわない言葉は、ないように思われた。
「違うわ。私は自分の目的のために、そうしているだけ。ネストキィレターの力を、自分の身に移して、やりたいことが、あるだけ。ぜんぶを集めなくちゃ足りないと思っていたけど、これだけの文字があるなら、きっとここで足りるわね。今日で、終わるわ」
エスメリアは、服の裾を破った。この場で唯一、力を扱うことのできるルーガルドの口を、きつく塞ぐ。
スノウは、実体ではない。残留思念の塊、幻のようなものだ。文字を読み上げても、それを身体に移すことはできない。
「ちょっと待て、エス」
力ずくで血の拘束を解こうというのだろう、全身に力を込めながら、ジキリが呼びかけた。
「命を、削るっていったよな。おまえの身体に移したところで、おまえが力を使えば、同じことだろ。そんなことしたら、おまえ……」
「命なんていらないのよ」
それは、虚勢ではなかった。
心からの言葉だった。
数え切れない命を終わらせてまで、生き抜きたいと思ったことはなかった。
ここまで生きてきたのは、目的のためだ。
そのためだけに、歩んできた。
「では、なにをするつもりだ」
この状況でも威厳を失わず、ユイファミーアが問う。
それは賞賛に値した。エスメリアは素直に、この女性を尊敬した。自分しか知り得ない罪を抱え、彼女の心中は揺れ動いていたはずだ。こうして対面して、わかる。彼女は傲慢で愚かな王では、決してない。だからこそ、シグヌムを導入すると、決定したのだろう。
しかし、それももう、どうでもよくなる。
「ネストキィレターは、世界そのものに干渉するわ。それなら、『時』に命令文を下したら、どうなるのかしら? ねえ、プース・オングルでは、そんな研究もしていたわね。ライティングではほんの数秒だけど、時を戻すことができるのは、立証済みでしょう?」
エスメリアは、石碑の向こう側、ずっと離れた位置からこちらを見ていたシェリアンに、話しかけた。
この地下空間では、身を隠す場所などなかった。彼女も地下に下りていたのだろう。シェリアンは眼鏡をかけ直し、わざとそうしているかのように踵を鳴らしながら、肩をすくめて近寄ってくる。
「状況は……、まあ、把握しづらいわねえ。そこの馬鹿王子がどうしようもない馬鹿王子だってことが、わかったぐらいかしら。質問の答えは、イエスよ、お嬢ちゃん。ライティングでは、膨大な文字列を構築した挙げ句に、一呼吸分。まったく実用的ではないけれど、できるわ。時間を、戻すことが」
「──それがわたしの、目的よ」
エスメリアは微笑んだ。右手を払うことで赤い血が床を伸び、シェリアンの身体も拘束する。あまりにも簡単なことで、意識すらする必要がない。
エスメリアは、石碑を覆い隠していたネストキィレターの力を、取り去った。赤い文字が露わになり、まるでエスメリアの身体に眠る魂と呼応するかのように、うっすらと輝く。
「──!」
声にならない声で、ルーガルドが何事かを叫ぶ。布を咬まされ、いうことができないのだ。
エスメリアはそっと、愚かな王子を見下ろした。
「あなたには、いったはずよ」
スノウがじっと、こちらを見ていた。しかしエスメリアは、その目を決して見なかった。見てはなにかが、揺らいでしまいそうだ。
「わたし、悪人なの。この国の未来なんて、どうでもいい。ただ、十三年前のあの日を……最初の、あの日を」
エスメリアは、石碑に向かい合った。
睨みつけるように、赤い文字と対峙する。
「なかったことに、したいのよ」