ネストキィレター 2
「なんだあ、こりゃあ……」
ジキリは尻餅をついていた。
なんという失態と、すぐに立ち上がる。壁に手を付こうとするが、そうすべき壁がない。己の姿を見て、先ほどと変わっていないことに安堵する。
シェリアンの依頼を受ける形で、ジキリは地下へと下りていた。危険な臭いのする怪しいこの場所を探検するのは気が進まなかったが、助けてもらった恩返しという意味では、なにもしないわけにもいかない。なにより、もしかしたらという期待があった。目指すものが同じならば、確率は上がるはずだ。
しかし、突然の予期せぬ事態に、動けなくなってしまった。
進んでも進んでも行く手を阻む石の壁に辟易していたころ、突然地下全体が赤い光に包まれたのだ。消滅、という言葉が脳裏に浮かび、聞いたばかりのシェリアンの説明が走馬燈のように蘇ったが、そうではないようだった。
生きている。
地に、足をつけている。
消滅したのは、町でも、地下でもない。地下を構成していた、壁だ。
「臭いは……同じか。ルートでどこかに飛ばされたわけじゃねえな」
指を舐める。風の動きはない。まるで現実味のない世界に放り出されてしまったかのようだ。
落としてしまったランタンを拾い上げ、注意深くあたりを照らす。なにも見えない。石の床は先ほどまでと同じもののようだったが、壁だけが、きれいさっぱりなくなっていた。
「閉じ込められた、か?」
その可能性は充分にあった。この状態で、上に繋がる階段が残っているとは思えない。ルートは生きているのだとしても、唯一使えるルートの文字は、捕まったときに取り上げられてしまった。
ジキリは、目を凝らし、耳を澄ました。
どんな光も、どんな物音も逃すまいと、神経を研ぎ澄ませる。
小さな、音がした。
規則的な音。早いリズム。足音だ。少し遠くで、誰かが走っている。
ジキリは直感した。理屈など考えなかった。音のする方向へ向かって、走りだす。
「エス!」
暗闇を駆けていたのは、ジキリの思った通りの人物だった。長く黒い髪をなびかせ、一心不乱に、どこかを目指している。
いつでも冷静な空気をまとっている彼女が走る様子は、ただならぬものを感じさせた。ジキリは息を吸い込む。
「エスメリア!」
二度呼びかけ、やっと、エスメリアは足を止めた。彼女はランプの類を手にしていなかった。なにか一つに気をとられていたのか、あるいはなにも見ていなかったのか。ジキリの手にしていたランタンにも、いま気がついたようだ。
「ジキリ……?」
怪訝そうに、目を細める。ジキリはランタンを上に掲げると、できるだけ陽気に片手を挙げて見せた。
「よう、久しぶり。奇遇だな、こんなところで」
「悪いけど、急いでるの」
とても再会を喜ぶ雰囲気ではない。エスメリアはすぐにジキリに背を向け、走り出す。
ジキリは床を蹴ると、エスメリアの細い腕を掴んだ。
出会ったその日から、常に黒い衣服で覆われていたはずの腕が、露わになっていた。
光を近づけないでもわかった。それが、どのような状態になっているのか。
「……急いでいるのよ、ジキリ」
「おまえ、なにするつもりだ」
彼女の衣服は破られていた。何者かにやられたのか、自らそうしたのかはわからない。しかし、問題はそこではない。
ジキリは力ずくでエスメリアの腕を引き、石の床に組み敷いた。彼女の黒い衣服をまくり上げ、ランタンで照らす。
「嫌な趣味ね。泣き叫んだ方がいいかしら?」
あくまで冷静に、エスメリアがいう。ジキリは答えず、首もとを乱暴に引っ張り、鎖骨までを光にさらす。
そうして、静かに、息を吐き出した。
怒りと情けなさと──言葉にならない感情が、駆け巡る。
「……続けてたのか、ずっと」
問うと、エスメリアは笑った。
「あたりまえでしょう。わたしには、これしかないの」
「あの馬鹿は、止めなかったのか」
エスメリアは、ほんの一瞬、黙った。
「彼にも、これしかないのよ」
「おまえ、死ぬぞ!」
抑えきれず、叫ぶ。声はどこまでも響き、こだました。しかしエスメリアは、わざとそうしているかのように、淡々と、返す。
「死なないわ、終えるまでは」
エスメリアの肌は、赤く染まっていた。形がわからないほどの小さな文字が、白い肌を埋め尽くしていた。ジキリの知るそれよりも、ずっと多く。いまにも首の上にまで伸びそうなほどに、文字がエスメリアの身体を浸食している。
ネストキィレター。
彼女が読み上げた文字は、拠り所を彼女の身体へと移す。それの意味するところを、ジキリは知らない。ただ得体の知らない恐ろしさがあることだけは、わかった。
他のトレジャーハンターのようにネストキィレターを欲しながら、エスメリアはそれを決してプース・オングルに売るようなことはなかった。また、文字を研究している様子もなかった。
「おまえ……いえよ。おれや、あの馬鹿に。なにが、したいんだ」
エスメリアは、口を開かなかった。いうつもりなどないのだろう。そんなことは、最初に会ったそのときから、わかっている。
「エスメリア──!」
遠くから声が響き、足音が近づいてくる。ジキリの怒鳴り声を聞きつけたのだろう、追いついてきたのはスノウだ。
ジキリが顔を上げた瞬間、エスメリアはジキリを蹴り上げた。避けようと飛び退くと、その隙に身を翻し、立ち上がる。
「おい、全力で逃げられてんぞ、スー!」
情けなさから、スノウに当たる。スノウは息を切らしながらも、足を止めることなく、エスメリアを追った。
「き、貴様こそ、いまここでなにをやっていたんだ! なぜエスメリアの衣服が乱れている!」
的外れなことをわめく。ジキリは舌打ちした。ずっと遅れて、うしろからもかすかな気配。追ってきているのは、スノウだけではないようだ。
「どういう状況だ。手短に説明しろ馬鹿野郎」
自らも追いながら、問いかける。スノウはごく真面目に、吐き出した。
「エスメリアを、追っている!」
まったく使えない。予想以上に使えない。つまり、いまここで見失っては、もう追えなくなるということだ。
「わかった」
本当はわからなかったが、そう答える。
しかし、見失うことはなかった。
エスメリアは、立ち止まっていた。
立ち尽くしていた、というのが正しいかもしれない。
なにもない空間で、脱力したように、ただ立っていた。
「やめなさい……」
絞り出すような、声。ジキリはランタンでその先を照らす。
床しか存在しないと思われた空間に、壁が立ちはだかっていた。
壁ではなく、石碑だろうか。床と同じ材質で作られたそれは、まるで荒野に立つ塔のように、なにものにも邪魔されることなく、天井に向かってそびえていた。
描かれているのは、無数の文字。
赤い文字が踊る石碑は、そのものが赤く染まっているかのようだ。
「それを、読んではいけない!」
エスメリアが叫ぶ。
石碑の前でゆっくりと振り返り、金色の髪の少年が、薄く笑った。