彼女は夜の中で
独り寝の夜は嫌いだ。
ふと目を覚ましたとき部屋に自分一人しかいないという事実に、沙希はどうしようもなく寂しさを感じてしまうことがある。いつからだったろうか、昔からそんな風だったかもしれない。夜中に起きてしまった子供が、不安で母親を近くに求めるような。ある意味でそういうものに似ているのかもしれなかった。天井は嫌に高く、壁に圧迫されるような印象を受ける。怖さを感じているのだろうか、苦しさで胸が詰まりそうになって間欠的に深呼吸をしないと耐えられなくなりそうだった。
二月の夜はまだ寒くて、ベッドの中では自分の体温がとても心地よい。だが、これが二人になるとまた少し違う。狭いベッドが時に広いように感じてしまうのも、やはり寂しさのせいだ。刹那的でも、ただひととき心を埋めてくれるものがあれば。そう思わずにはいられない。だから沙希は自分を受け入れてくれる人間を求める。例えば絡めた指のぬくもりとか、背中合わせでも誰かが隣にいるということを感じられればもっと安心できた。夜の中で自分の居場所を与えてくれるような存在をいつも欲していた。そうでなかったら夜の闇に溶け出して自分が消え入ってしまいそうな気もしたし、その時間もあまりに長いものに感じてしまうのだった。
高校に入ったころから、沙希はやや男関係にだらしなくなった。寂しさの埋め合わせに関して、一つの方法を見つけたからだ。そして大学に入って二年。体だけの関係の男友達がいることは今も変わらない。恋人とは違うライトな関係は彼女にとっては楽だった。
それでも所々でいくつか自分の悪い評判を聞くこともあったし、時折、罪悪感ではないが痛みが胸を刺すようなこともある。していることがあまり良くないと自分でもわかっている。しかしそこは沙希なりにルールを作っていて、ズルズルベッタリとかお互い依存し合わない程度に距離は取っているつもりである。恋人がいる男には絶対に近寄らなかったし、少しでもそんな影が見えれば沙希はすぐに身をひいた。なるべく他人を傷つけることがないように――ずいぶん綺麗なことを言うようだが、それは心に置いていることだった。
部屋のカーテンは寝るときに面倒だったので今日は閉めていない。大きく開け放たれたそこから、ちょうど白い月の明かりが部屋の中を差していた。寒い季節の空気はとても澄んでいるので、月明かりも絹の白糸をまっすぐ伸ばしたように特別美しく見えるのである。寒いので布団から手を出したくはないが、伸ばせば届く距離に明るい場所があった。こういうときふとおかしな想像をしてしまうのだが、自分はすぐ目の前の明るみに憧れているのにこの暗がりから出ることは叶わないのだと、まるで自分の立ち位置がそういうものであるように考えてしまうことがある。とんだ感傷家と自分でも思うし、親友に話せばおもいきり笑われてしまう。それでも時に、どこにも抜けられない閉塞した感覚を心の隅のほうで沙希は覚えるのだった。
突然マナーモードにしていた携帯が震えて着信を示す。やや驚きつつ名前を確認して電話に出ると、向こう側から穏やかな調子の声がした。
『沙希?』
「ああ、静香……」
静香は沙希の昔からの親友で付き合いも家族ぐるみ、小学校から大学までもう十五年来の縁になる。何をするにもほぼ一緒だったし、互いに大小様々なことで相談し合うこともあった。学校でも毎日のように会うのだが、たまにこうしてこんな夜に電話が掛かってくると沙希も安心する。
『ごめん遅くに。寝てた?』
「うんと、今ちょうど目が覚めた」
もぞもぞと体を動かして布団の中で体勢をかえる。仰向けになって天井を見つめ、さっきまで考えていたことを払うようにすこし繕ったような声を出した。
『ちょっと相談があるんだけど、いい?』
「いいよ、何?」
ふらふらしていい加減な沙希に比べると静香のほうがはるかにしっかりしていて、人としてもまっすぐだ。にもかかわらず、どこか知らないうちに心の中に懸念や不安をため込んでしまう癖があることは自分と似ていた。ある程度沙希は発散する方法を心得てはいるが、静香に至ってはそこのところがうまくないらしく、たびたび寄りかかってくることがある。深刻なことも、そうでないことも沙希が受け止めてやっていることが静香にはずっと大事なことだった。
『英文科の吉田先生から語学留学を勧められててさ。どうしようかなって、思ってるんだけど』
「あれ、前に行ってみたいって言ってなかったっけ。いい機会だから行ってきたら?」
即答気味に答えると電話口でわずかに言いよどむような雰囲気が伝わってきて、静香がなにやら気にしていることを沙希は感じ取った。次に聞こえてきた声は少しトーンが下がっていて、静香自身は気付いていないだろうが籠もった響きをしている。
『期間が半年か、まあ長くて一年なんだって』
「そう、半年か……」
静香は優秀だから、良いチャンスは活かせばいいとよく思うのだ。そんなことまで聞かなくてもと沙希は思ったりしない。こうして話してくるということは、なにかしら彼女の中で問題になるようなこと、懸念するようなことがあるからなのだ。
『忙しすぎてすぐ過ぎるとは思うけど』
「そうだよね。ここ二年もだいぶ駆け足だったような気もするし、時間が過ぎるのって意外と早いのかもしれないね」
確かにそうかもしれない。同じように歩いてきたはずなのに、いつの間にか静香は自分よりもいくらも先へ行ってしまったような気がする。それで二人の関係に決定的な変化が訪れるとは思わないが、役割はいつか変わらなければならなくなるだろう。
間違いなく静香が気に懸けているのは自分のことだ。言葉には出さないが態度がおかしい。いつかお互いを守りきれなくなるということは、それぞれ役目は果たせなくなることだと、二人とも気付いている。距離が離れるというのは直接の目が届かなくなるということである。傍にいるから感じられること、わずかでも気付く日常の変化、それは電話口やメールでは当然ながら察するに困難をきたす。今まで変わらなかった精神的な意味での互いの保護関係が成り立たなくなるのだ。
「行く気なんでしょ?」
さすがにずるいと自分でも思う。こう言えば静香は否定できない。
「え、……うん」
行かないで欲しいと言ったらやめるだろうかと更に意地の悪いことを考えつく。そこまでして止める理由もなく、子供に親離れさせようとする親の気持ちはこんなものだろうかと思ってしまう。
しかし留学となると出発はいつになるのだろう。欧米の大学は九月始まりが主流と聞いたことがあるが、だとすると夏休みになるのか。まあいくらなんでもこの二月に聞いてくるとはだいぶ気の早い話ではないかと思うが。だが準備のことも関係するのか、などといろいろ考えていて話が止まってしまう。
『どうしたの沙希?』
気がつけば沈黙が続いていて、しばらく沙希も口を開けたままだった。
「ああ、なんでもないよ。あー、そういえば最近どう?」
慌てて返事をしたら間抜けた声を上げることになった。あまり困らせるわけにもいかないので、とりあえずこちらが気になっていることに話題を変えてみる。
『なに? いつも会ってるのに』
「そうじゃなくて」
匂わせるように言ってもわからないあたりどうも静香は鈍い。
『だからなに?』
「孝之君のことだよ」
ここまで言わせるかと思うが、しょうがないのだろう。孝之は静香の彼氏で、若干頼りないところもあるがやるときはやるし、パワーバランス的にも申し分ない。付き合いだしてまだ一年も経っておらず、心配ないとは思っているが一応聞いてはおきたい事柄だった。しかしこういうことに口を出すと、自分はつくらないのかと切り替えされることがあるので沙希はあまり得意ではないのだが、それでも静香のことはいろいろと気になる。他人のお節介をやきたくなるのに困った話、自分のことはさっぱりだった。実際恋人を作ることは三年も前から真面目に考えることをやめてしまったが。
『別にどうもしないけど。なにかあるの?』
「それならいいけどさあ」
電話越しに照れる様子が伝わってくるのでこちらもつられて口元が緩んでしまう。心配要らないことはよくわかった。本当に子供を独り立ちさせる親みたいな気分になってきたのだが。
「静香」
『ん?』
「孝之君のことはちゃんとつかまえておかないと駄目だからね」
いずれ、沙希の役割を彼が担うときが来る。自分よりもはるかに傍にいる存在になるのだから。守るどうこうはやはり男の子の役割だと沙希は考えている。
『沙希……?』
どうかしたのかと続けようとする静香の様子を察して、沙希はあえて明るい口調で答えた。変に勘ぐられるとどうもいけないので、こういうときはうやむやにするのが一番いい。
「静香は気に懸けないと人のこと放っておいちゃうでしょ? よくない癖だから、孝之君に愛想尽かされないようにまめに構ってあげないと。ただでさえ勉強で手が離せないことが多いのに、そういうところ静香は気をつけなさいってこと」
『うん、ごめん。ありがと』
「明日ちょっと早いんだ。じゃあ、切るね」
通話を切ってもう何もスピーカーの向こうから聞こえなくなった後も、沙希はしばらく携帯を耳に当てたまま天井を見つめていた。緩んでいた口元に、やがてわずかに力が入る。無表情に近くなって、高揚していた心が冷めて沈んでいく。やがて放るように枕元に電話を置くと、おもむろに右手で左手首を握ってしきりにさする。
疼く。
そこと胸の奥と頭のどこかでずっとしまってきた衝動が動き出す様な気がする。静香に負けず劣らず自分も意外と弱いのだと、沙希は否応にも感じてしまう。静香との会話の中で思い出してしまうなんて。人間の脳みそはどうしたって物事を覚えているからいやなのだ。どんなこともフラッシュバックするように突然思い出す可能性がある。
鋭く硬い感触と、赤い色と、叫ぶような弟の声。鈍い痛みとともに生きているという実感を覚えた。あの頃はそれが一番だったけれど、今は違うと自分に言い聞かせる。ずるいよね、ごめんと心の中で謝り、きつく目を瞑って唇をかんだ。
なんだか会えなくても、せめて誰かの声が聞きたいと思った。時間帯が夜中に近いことで人は限られてくるが、適する人物は誰かと探してみると一人いる。まだ起きているだろうか。弟のことを思って枕元に手を伸ばすが――
途中で脱力したように沙希は突然手を投げ出して動きを止めた。
「怒られるかな」
そういう様子が目に浮かぶ。寝起きで機嫌が悪いのも嫌だし、さすがにただ怒られるのは嫌だ。しかも高校一年生にだ。考えを巡らせてその選択肢を消した後、おもむろに沙希は横に寝返りをすると胎児のように自分の体を丸めるようにする。今は結局一人だ。触れるべき指は、掴むべき手は、いくら自分で手を伸ばしてもここにはない。
よく思い直せば、特別ではないありふれた夜と変わらないではないか。ただ朝が来るまで我慢すればよかった。無音の空間で黙ったまま意識してみると、よく聞こえるのは自らの心音。少し安心しながらも沙希はわずかばかり呼吸が荒くなる。早く眠りに落ちたい。目覚めている時間を少しでも短くしたい。そう思って目を閉じても余計に頭が冴えてしまう。
やはり夜は嫌いだ。
その永遠に思える長さも、黒も、静やかさも、剥き出しの心には、あまりにも冷たく感じる。
了