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この作品には 〔残酷描写〕が含まれています。

ラベンダーの腕

作者: 宗 由布
掲載日:2026/05/11

「ねえ、田代くんだよね」


元カノの匂いがふんわりじっくり肺に入った気がして、殴るように自分の鼻を掻いた。

高そうで人工的な匂い。

あの頃の俺は大好きだった。


「舘山さん……だよね?」


講義室の入口。

黒縁メガネのおとなしそうな女の子が立っている。

元カノの匂いは、気のせいだったかもしれない。


「高校ぶり……だね」


はじめましての挨拶をしたのはもう三年前。

それからまともに喋った記憶はない。

レンズの奥に、潤った黒目がたたずんでいた。


「急にどうしたの?」


舘山さんは、ずっと床とにらめっこをしている。

サラサラの黒髪を落として、俯いていた。

床は、俺たちのところだけやけに汚れている。


俺らの間には、沈黙が立っていた。

授業終わりで空っぽの小講義室。

嫌なほど黒ずんだホワイトボード。

清々しいほどに曇った窓の外。


まだ、舘山さんの匂いが気になる。


「ねえ、匂い、気になるでしょ」


舘山さんは、少しかがんで俺に聞いた。

香りも舘山さんと一緒におりてくる。

俺と視線を合わせて、首を傾げた。

ぎこちない笑顔が、薄く張り付いている。


「ま……いい匂いだね」


舘山さんは、不服そうな顔をしてまた下を向いた。

割れてしまいそうな肩に手を出しかけて、すぐ引っこめた。

ほんの少しだけ、舘山さんの体温を感じた。

舘山さんは、俺のものじゃない。


沈黙は、俺が震えてもまだどいてくれなかった。


「ラベンダーかな」


舘山さんは、まだ下を向いている。

シリーのNo.51。

彼女だった人の、大好きな香水。

俺の本棚には、未だに誕生日プレゼントにするはずだった51番が隠されている。

俺はもう、隠し場所も覚えていない。


「シリーってところの香水なんだけどね」


温かい声が俺を後ろに押しやった。


舘山さんの頭を撫でる冷たすぎる風が、記憶を運んでくる。


「ねえ、李さんのこと考えてるでしょ」


李。

り。

平たい声に、俯くしかなかった。

首から肩、肩から肘、肘から指へと冷たい血液が流れていった。

額に脂汗が湧いてくる。


「なんで衣玲那(えれな)と付き合ってたって知って……」


「ん、気づいちゃった」


間髪入れずに答えた舘山さんに思わずのけぞってしまった。

そっか、としか言えず、沈黙よりも重く淀んだ空気が、容赦なく俺を凍らせた。


「香水」


舘山さんは独り言のように呟いて、一歩寄ってきた。

肩のあたりに垂れた髪の毛から、51番の匂いがする。

青草を甘く煮たような鼻に抜ける匂いは、俺の服からもなんとなく漂っていた。


「棚の下から二番目、右から三冊目のうしろ」


聞いたら思い出した。

シリー51番の隠し場所。

でも……。

氷を鼻から吸い込んだような苦しさにむせてしまった。


「あ、李さんには話したよ」


衣玲那(えれな)の名前を出してきた。

少しかがんで、口だけ微笑んだ。


「残念なことになっちゃったけどね」


急に、衣玲那(えれな)の香水の匂いを思い出した。

目の前に同じ匂いをまとった女性がいるのに、その匂いは確実に違った。

舘山さんの匂いには、棘がある。


「ねえ、私と付き合ってよ」


俺は全身の神経が途切れたように固まってしまった。

匂いだけで、顔も声も唇の柔らかさも思い出せる。

そんな元カノを、忘れられるわけがない。


「ごめん、やっぱり俺は衣玲那(えれな)なんだ」


もう付き合えないなんて知っている。

衣玲那(えれな)はもう、幸せになった。

でも、俺は衣玲那(えれな)のラベンダーの香りのほうが好きだ。


背中も濡れてきた。

恐る恐る顔を上げたが、舘山さんは下を向いていた。


「ふうん、やっぱり私じゃだめなんだね」


口を膨らませて、舘山さんは背中に両手を回した。

舘山さんは手ぶらではなかった。


「ごめん、せっかく」


――――――


「これで、私が一番最後だね」


手を伸ばしたら、急に右腕が軽くなった。

舘山さんは、俺の右腕を持っている。


悶える俺に構わず、笑いながら自撮りしている。


「ほらほら、田代くんピースはぁ?」


はいピース、と俺の腕を一本持ってピースを作った。

酸っぱい匂いが、肩から広がってくる。


「また会おうよ」


体中に甘い毒を振りまいて、講義室から去っていった。

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