第一話 勇者に憧れた少年
勇者ラインハルトは、平民の生まれだった。
教本の最初のページに、決まりきった言葉みたいにそう書かれている。誰でも知っている一文で、誰でも一度は口にしたことがあるはずなのに、どういうわけか僕だけは、それをただの知識として受け流すことができなかった。
名前しか持たない、特別な生まれでもない、どこにでもいる人間が、世界を救った。
それは遠い昔の出来事で、もう二百年も前の話だ。それでもその事実だけは今も変わらず現代に語り継がれている。
この世界で“勇者”と呼ばれる存在は、ラインハルトただ一人しかいない。
「……勇者ラインハルトは、魔王との最終決戦において――」
教壇の前で、中年の男教師が淡々と教本を読み上げる。抑揚の少ない声は、窓から差し込む風の音と混ざって、どこか眠気を誘う響きになっていた。
実際、教室の空気はゆるんでいる。隣のやつは頬杖をついてぼんやりしているし、後ろからは小さな欠伸が聞こえてきた。
けれど僕だけは、自然と背筋が伸びていた。
もし、あの時代に自分が生まれていたなら。
もし、魔王がまだ世界を脅かしていたなら。
その時、自分は剣を取れただろうか。
ラインハルトみたいに、誰かの前に立てただろうか。
「カイ」
名を呼ばれて、意識が現実に引き戻される。
「聞いていたのか」
「はい」
即答すると、教室のあちこちから小さな笑いが漏れた。どうせまた、こいつはこの話になると真面目だ、と思われているのだろう。
それでも構わない。
「なら答えてみろ。勇者ラインハルトが他と違った点は何だ」
少しだけ息を整えて、言葉を選ぶ。
「……平民だったこと、です」
教師の目がわずかに細くなる。
「何も持たないただの平民だった。それでも……強くなって、世界を救った」
言い終えると、教室は一瞬だけ静かになった。
「……まあ、間違いではない」
老師はそう言って本を閉じる。
「だが、忘れるな。戦いは教本のように綺麗なものではない。憧れだけで生き残れるほど甘くもない」
「はい」
頷きながらも、胸の奥の熱は消えなかった。
泥に塗れてもいい。
それでも前に進めるなら、それでいい。
授業が終わると、教室はすぐに騒がしくなった。椅子を引く音や雑談が重なり、さっきまでの空気は跡形もなく消えていく。
「また森の方で魔物が見つかったらしいぞ。もう倒したらしいけどさ」
「この前もだろ? 最近多くないか?」
「いくら辺境でも、こんなに続くとな……」
そんな会話が耳に入る。
この村は、魔物の生息域のすぐ近くにある。とはいっても、完全に隣接しているわけじゃない。少し離れているし、普段は森の奥にいるはずのものが、わざわざ人里まで出てくることは少ない。
それでも、“近い”という事実だけで、安心しきれる場所ではなかった。
僕はそのまま古びた木造の建物を出る。
向かう先は決まっている。村外れの丘。森を遠くに見下ろせる、少し開けた場所だ。
本当はあまり近づくなと言われている。
それでも、そこに行く理由ははっきりしていた。
強くなりたいからだ。
丘に着くと、風が草を揺らしていた。空は高く、雲はゆっくりと流れている。こうしていると、建物の中にいる時よりも、ずっと世界が広く感じられた。
木剣を抜いて構える。
踏み込み、振り下ろし、返す。
同じ動きを繰り返しながら、少しずつ無駄を削るように意識を向ける。
単純な動きだ。けれど、それを積み重ねるしかない。
強くなるために。
腕がじわりと熱を持ち始めた頃、不意に背後から声がした。
「ねえ」
振り向くと、そこに一人の少女が立っていた。
見たことのない顔だった。この村の人間じゃない。それなのに、まるで最初からそこにいたみたいに、自然に立っている。
年は僕と同じくらいだろうか。淡い緑色の髪が風に揺れ、その合間から覗く瞳は、ルビーみたいに深く赤く輝いていた。
身に着けているのは、この辺りではあまり見かけない服だった。動きやすそうな黒を基調にした上着に、膝丈の軽いスカート。どこか旅人のようにも見えるのに、土埃一つついていないのが妙に浮いて見える。
それが余計に、この場所との違和感を際立たせていた。
「さっきからずっと同じことしてるけど、それ、面白いの?」
あまりにも唐突な言葉に、少しだけ間が空く。
「……面白いとかじゃない。鍛錬だよ」
「ふうん」
興味があるのかないのか分からない返事だった。
少女は少しだけ近づいてくる。足取りに迷いがなく、周囲を警戒する様子もない。
「強くなりたいの?」
まっすぐな問いだった。
試すような色も、からかいもない。ただ確認するような声音。
「……なりたい」
自然と答えていた。
「どうして?」
少しだけ考えてから、僕は言葉を選ぶ。
「守れるようになりたいから」
口にした後で、少しだけ恥ずかしさを覚えて顔を背けてしまう。けれど嘘ではない。
少女は一瞬だけ目を細めて、それから小さく頷いた。
「そっか」
それだけだった。
肯定も否定もしない。ただ受け取っただけの返事。
「リシェル」
彼女は自分から名乗った。
「僕はカイ」
「うん、知ってる」
「……え?」
「あなたと私、初めましてじゃないよ」
さらっと言われて、思わず言葉に詰まる。
どういう意味だ、と聞き返そうとしたが、リシェルは気にした様子もなく丘の景色を見回していた。
「ここ、静かでいいね」
「誰も来ないからな」
「だからカイはここにいるの?」
「まあ、そんな感じ」
短く答えると、彼女は楽しそうに頷いた。
会話はどこか噛み合っているようで、少しだけずれている。それなのに、不思議と嫌な感じはしなかった。
「また来てもいい?」
唐突にそう聞かれる。
「ここに?」
「うん」
少しだけ考えてから、肩をすくめた。
「……好きにすればいいだろ」
「じゃあ、そうする」
あっさりとした返事だった。
その軽さが、なぜか心地よく感じる。
風が吹いて、草が揺れる。
気づけば、さっきまで一人だったはずの場所に、当たり前みたいに二人で立っていた。
ずっと変化のなかった僕の日常に、ほんの少しだけ、違う時間が入り込んできた気がした。




