第7話 折れない、折れたくない
眠れなかった。
窓から差す朝の光が目に痛い。屋根裏部屋の狭いベッドに横になったまま、天井を見つめている。昨夜の寒さがまだ指先に残っている。
暗号日誌は枕の下にある。このアパートで唯一の貴重品。あとは着替えが二枚と、クラウスがくれた藍色のインクの瓶。
あの瓶も、いつか没収されるのだろうか。
やめろ。弱気になるな。
ベッドから起き上がり、窓辺の小さな鏡を覗く。目の下に隈ができている。前世の就活時代を思い出す。最終面接で落ちた翌朝の、あの顔に似ている。
でも、あの時は最悪でも「次の企業を探す」で済んだ。今回の最悪は、投獄か暗殺だ。
スケールが違いすぎて、逆に笑えてくる。
……笑えない。全然笑えない。
◇◇◇
二日後。隠し書庫。
行くべきではないかもしれない、と思った。ギュンターの探りが強まっている今、ブラント邸に近づくのは危険だ。
でも行った。理由は一つ。一人で考えていると、どんどん選択肢が狭まっていく。暗号を解く時と同じだ。一つの方向だけを見ていると、別の可能性が見えなくなる。
クラウスは椅子に座っていた。いつもの場所。でも姿勢がいつもと違った。前のめりで、両手を組んでいる。考え込んでいる時の姿勢だろう。
「座れ」
「……ええ」
椅子に腰を下ろす。背中合わせ。
長い間、どちらも口を開かなかった。蝋燭が三本灯っている。明るい。新しく補充したのだろう。
「新しいルートの案がある」とクラウスが切り出した。
「聞かせて」
「王妃の茶会」
意外な言葉に、少し間が空いた。
「王妃は、月に一度、宮廷の婦人を招いた非公式の茶会を開いている。名目は社交だが、実質的には王妃が宮廷の情報を集める場だ」
「そこに証拠を届ける?」
「直接渡すのではない。王妃の茶会に出入りする侍女を通じて、王妃の耳に入れる。王妃は監査官とは別系統で調査を命じることができる」
「でも、私は王妃の茶会には出入りできない。没落令嬢に招待状は来ない」
「そこでうちの老執事が使える。ヨーゼフは王妃の筆頭侍女と旧知だ。先代の頃からの付き合いでな」
「ヨーゼフが知っている? この計画を」
クラウスは一拍置いた。
「……気づいていた。俺が夜な夜な書庫で何をしているか。先日、直接聞かれた」
「それで?」
「信頼できる。父の代からの忠臣だ。この計画を支持すると言ってくれた」
三人目の共犯者。リスクが増える。でも、二人だけの限界は明らかだった。
「もう一つ」クラウスが続けた。「王妃ルートで証拠を届ける場合、重要な点がある。俺と君が共謀していると疑われてはならない」
「……犬猿の仲が、ここで活きるわけね」
「そうだ。社交界で犬猿の仲として知られている俺とレーマン嬢が、共謀しているとは誰も思わない。証拠は二つのルートから別々に届ける。俺がヨーゼフを通じて王妃側に渡し、君は社交界で間接的に疑念を広げ続ける」
「二方向から包囲する」
「そういうことだ」
論理的だ。隙がない。いや、待て。
「でも、あなたが直接ヨーゼフに証拠を託すということは、あなたの身元が一つ多くの人間に知られるということよ」
「ヨーゼフは信頼できる」
「ヴェーバー卿も信頼できるはずだった」
声が、思ったより鋭く出た。
クラウスが黙った。椅子が軋む音がした。
「……それを言うなら、最初に監査官を選んだのは俺だ。今回も同じ過ちを繰り返す可能性がないとは言えない。だが」
「一人でやる」
私が遮った。
「ルートの選定は私がやる。ヨーゼフとの連絡も、王妃側への接触も。あなたは宮廷内で動きすぎないで。これ以上あなたに危険を」
「レーマン嬢」
クラウスの声が、低くなった。
「最初から全部一人でやろうとするな」
奥歯の裏側が痺れた。
父の顔が浮かんだ。一人で証拠を集め、一人で暗号に記録し、一人で捕まった父。
「一人でやらないと」
唇の端が引きつった。
「また誰かが死ぬ」
蝋燭の灯りが揺れた。
両手の爪が掌に食い込んでいた。白くなった指の関節を、自分で見つめている。
「父は一人でやろうとして死んだ。私に何も言わずに。暗号に隠して。一人で全部」
止まれ。
「だから」
止まれ。泣くな。ここで泣いたら。
「巻き込めない。あなたを。誰も。でも、違う、そうじゃなくて。巻き込みたくないんじゃない。怖いの。また、同じことになるのが。父の時みたいに。何も知らないうちに、全部終わってて。あなたまでいなくなったら。いなく」
途切れた。
背中越しに、クラウスの呼吸が聞こえる。いつもより深い呼吸。何かを飲み込んでいるような。
長い時間が過ぎた後、クラウスが言った。
「俺は死なない」
短い言葉だった。
「少なくとも、君より先には」
不器用な約束。こんなもの、何の根拠もない。死なないなんて、誰にも保証できない。
でも。
「……何の根拠もないわね、それ」
「根拠はない」
「無責任な約束」
「そうだ。だが約束する」
喉の奥の堰が、少しだけ緩んだ。泣きはしなかった。でも、目の奥が熱くなった。
椅子の背もたれを掴む手に力が入った。ここで崩れたら終わりだと思った。だから代わりに、計画の話に戻した。
「……立て直しの計画、もう一度聞かせて」
「わかった」
クラウスが、改めて計画を説明し始めた。王妃ルート。ヨーゼフの人脈。二方向からの包囲網。
聞きながら、私は背中合わせの椅子の中で、少しだけ背もたれに体重を預けた。クラウスの背中の温度が、革越しに伝わってくるような気がした。
気のせいだ。革張りの椅子越しに体温なんて伝わらない。
でも、そういうことにしておきたかった。
「……クラウス」
意識せずに、口をついて出ていた。
「何だ」
「いえ。何でもない」
計画の細部を詰めながら、自分がいま何と呼んだのか、気づいていなかった。
◇◇◇
帰り道。
子供の頃、父と暗号遊びをした記憶が蘇った。
『テレ、暗号の鍵を作ってごらん。世界で一つだけの、お前にしか作れない鍵を』
私は何を答えたのだろう。
思い出せない。でも、父は笑った。インクに染まった指で、私の頭を撫でた。
……あの手の感触だけは覚えている。紙とインクの匂いのする、温かい手。
第三層の鍵。父が私にだけ解けるようにした暗号。
答えは私の中にある。
まだ見つけられていないだけ。
冬の夜空に、星がまたたいている。前世の東京より、この世界の星は近い。手を伸ばせば届きそうなくらいに。
届かないけど。
でも、見えている。




