第6話 崩壊の音
計画は完璧だった。少なくとも、あの日まではそう思っていた。
暗号日誌の第二層が完全に解読された。ギュンターの横領の全容。金額、時期、送金先、関与した人物。全てが繋がった。残るは第三層の最後のメッセージだけ。
あとは、この証拠を然るべき場所に届ければいい。
王家の監査官。宮廷の財務を監視する独立機関。ここに証拠を持ち込めば、正式な調査が始まる。ギュンターを法の力で裁ける。
クラウスが信頼する監査官がいた。ヴェーバー卿。先代の時代から監査官を務める、清廉で知られる老紳士。クラウスの父とも面識があったという。
「ヴェーバー卿なら信用できる。父も信頼していた」
クラウスはそう言った。隠し書庫で、いつもの背中合わせの配置で。声に確信があった。
私も、信じた。
◇◇◇
証拠の写しを作るのに丸二日かかった。暗号日誌の解読結果を整理し、クラウスの財務資料と突き合わせた対照表を作成する。誰が見ても不正の存在が明らかになる資料。
クラウスがヴェーバー卿に面会し、資料の一部を渡した。全てではない。まずは核心部分だけ。反応を見るために。
三日待った。
四日目の朝、クラウスの顔色が変わっていた。
隠し書庫ではなく、市場の果物屋の裏手で、事前に決めていた緊急連絡用の場所で、クラウスは低い声で告げた。
「ギュンターが動いた」
「……どういうこと」
「俺たちが渡した資料の内容に合わせて、財務記録が書き換えられている。ピンポイントで。俺たちの証拠が指摘した箇所だけが修正されている」
顔の皮膚が一枚冷たくなった。
「ヴェーバー卿が」
「漏らした。ギュンターに」
嘘でしょう。
嘘であってほしかった。
「ヴェーバー卿は、ギュンターの協力者だった。あるいは、買収されていた。最初からか、最近かはわからない。だが結果は同じだ。証拠の一部が敵の手に渡った」
足が震えた。石畳の上で、膝が笑っている。
「私が……確認すべきだった。ヴェーバー卿の背景を、もっと調べるべきだった」
「俺が選んだ相手だ。俺の判断ミスだ」
「でも、私が止めなかった。暗号解読に集中していて、提出先の安全性を」
「レーマン嬢」
クラウスの声が、低く鋭くなった。周囲に人がいる市場では、名前で呼べない。
「今は犯人探しをしている場合じゃない。問題は、ギュンターが何を掴んだかだ」
冷静に。冷静に考えろ。
渡したのは証拠の一部。核心部分だが、全体ではない。暗号日誌の原本は私の手元にある。クラウスが持つ財務資料の全体像は渡していない。
だが。
「ギュンターは、『内部に協力者がいる』ことを確信した」
「そうだ。財務記録の矛盾を指摘できるのは、内部情報にアクセスできる人間だけだ。ギュンターは今、犯人を探している」
胃の底に石を飲んだような重さが来た。
「侯爵家に探りの手が」
「来るだろう。すぐに」
市場の雑踏が遠くなった。果物屋のおばさんの声も、荷馬車の車輪の音も、全部水の底から聞こえるように。
◇◇◇
それからの三日間は、息を殺すように過ごした。
隠し書庫での密会は中断。連絡は緊急用の合図のみ。社交界にも顔を出さない。
屋根裏のアパートで暗号日誌を抱え、窓の外を見つめる。
冬が近づいている。風が冷たい。銀木犀の季節は終わり、街路樹が葉を落とし始めている。
父の暗号日誌を何度も読み返す。解読済みの部分。父がギュンターの不正を追っていた記録。慎重に、少しずつ、誰にも気づかれないように。
父も、こうやって一人で抱えていたのだろうか。
一人で証拠を集め、一人で真実に迫り、そして、一人で捕まった。
私は同じ轍を踏もうとしている。
いや。同じではない。私にはクラウスがいる。
……いる、と言えるのだろうか。取引相手が「いる」というのは、それは。
頭を振る。今は感情の整理をしている場合ではない。
問題を整理する。
一、ヴェーバー卿経由で証拠の一部がギュンターに渡った。
二、ギュンターは「内部協力者」の存在を確信している。
三、侯爵家への探りが始まる可能性が高い。
四、暗号日誌の原本と、未提出の証拠は無事。
五、証拠の提出先を変更する必要がある。
五番が最大の問題だ。監査官ルートが使えなくなった。では、誰に渡す?
王に直接? 不可能。没落子爵の娘が国王に謁見する手段はない。
法務局? ギュンターの影響力がどこまで及んでいるか不明。
社交界で公開? 証拠の信頼性が担保されない。
どのルートにも穴がある。
計算が合わない。
「……父さん、あなたはどうするつもりだったの」
暗号日誌に問いかける。答えは返ってこない。
第三層の鍵が、まだ見つからない。父が最後に残したメッセージ。あそこに何かがあるはずだ。父が私だけに伝えたかった何か。
でも鍵がわからない。
壁に頭をもたれさせた。天井の染みを数える。前世の受験勉強で行き詰まった時と同じ姿勢。
あの時は、翌日になれば解法が見えた。でも今回は、翌日が来るかどうかもわからない。
◇◇◇
五日目の夜。
社交界で、クラウスと擦れ違った。
「相変わらず目障りだ、レーマン嬢」
合図だ。密会の合図。
でもクラウスの目は、いつもの皮肉を含んだ冷淡さとは違った。何かを急いでいる目。
夜、隠し書庫へ向かった。慎重に、慎重に。尾行がないことを何度も確認してから。
クラウスが待っていた。立ったまま。椅子に座っていない。
「ギュンターが俺の名前を挙げた」
「……何ですって」
「まだ確定ではない。だが財務卿補佐官の中で、資料にアクセスできる人間を洗い出している。俺は候補の一人だ」
灯りが壁に映すクラウスの影が、僅かに揺れた。
「候補は何人?」
「三人。だが、俺が一番怪しいと見られている理由がある」
「何」
「先代ブラント侯爵……俺の父が、生前にギュンターと対立していた記録がある」
歯を食いしばった。奥歯が軋む音が、自分の頭の中で響いた。
父同士の因縁。それが、今になって足枷になる。
「証拠は、まだ大丈夫なの」
「原本は君の手元だ。財務資料の写しは俺がここに隠してある。今のところ書庫は見つかっていない」
「今のところ」
「……そうだな。今のところ、だ」
灯りが一本、燃え尽きた。残りは二本。
「新しいルートを探す。監査官以外の手段で、証拠を届ける方法を」
「あてはあるの」
クラウスは少し黙った。
「……考えている途中だ」
つまり、ない。
闇の中で、二人とも黙り込んだ。
計画が崩れた。積み上げてきたものが、一箇所の見落としで崩れた。
私のせいだ。
提出先の安全性を確認しなかった。暗号解読に夢中で、全体の計画の脆弱性を見落とした。父と同じだ。一つのことに集中しすぎて、足元を見なかった。
「私のせいだ。また、私の判断ミスで」
拳がテーブルを叩いた。自分の手だった。痛みが遅れてじんと広がる。
「違う。落ち着いて聞けと言ったでしょう。提出前にヴェーバー卿の周辺を洗うべきだったのは私も同じ。あなただけの責任じゃない。でも……でも、私が暗号にばかり没頭していなければ」
論理が崩れている。自分でもわかる。感情が思考を追い越して、筋の通らない自責が口から出てくる。
窓のない書庫の空気が、じわりと冷えてきた。どこかの隙間から外気が忍び込んでいる。
「テレーゼ」
クラウスが何か言おうとした。でも私はそれを遮った。
「……今のは」
自分の口から出た名前に、一瞬遅れて気づいた。侯爵閣下ではなく、クラウス、と呼びかけていた。さっき、頭の中で。いや、口に出したのか? 出していない。出していないはずだ。
クラウスは特に反応しなかった。ただ続けた。
「テレーゼ。俺の判断ミスを、君が背負う必要はない」
暗号日誌を鞄に押し込み、書庫を出た。
走った。
足が勝手に動いていた。どこに向かっているのか、自分でもわからなかった。階段を駆け下りて、扉を押し開けて、外の空気がいきなり頬を叩いた。冷たい。冬の夜だった。
石畳を蹴って走った。角を曲がった。知らない塀が続いている。違う、こっちじゃない。でも戻れない。足が止まらない。
冬の風が顔を切る。涙ではない。風のせいだ。
走りながら、父の声が聞こえた気がした。
『テレ、もしお前がこれを読んでいるなら』
父さん。私は。
わからない道を、それでも走り続けた。




