表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
夜だけ味方の侯爵閣下  作者: 九葉(くずは)


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

6/12

第6話 崩壊の音

計画は完璧だった。少なくとも、あの日まではそう思っていた。


暗号日誌の第二層が完全に解読された。ギュンターの横領の全容。金額、時期、送金先、関与した人物。全てが繋がった。残るは第三層の最後のメッセージだけ。


あとは、この証拠を然るべき場所に届ければいい。


王家の監査官。宮廷の財務を監視する独立機関。ここに証拠を持ち込めば、正式な調査が始まる。ギュンターを法の力で裁ける。


クラウスが信頼する監査官がいた。ヴェーバー卿。先代の時代から監査官を務める、清廉で知られる老紳士。クラウスの父とも面識があったという。


「ヴェーバー卿なら信用できる。父も信頼していた」


クラウスはそう言った。隠し書庫で、いつもの背中合わせの配置で。声に確信があった。


私も、信じた。


◇◇◇


証拠の写しを作るのに丸二日かかった。暗号日誌の解読結果を整理し、クラウスの財務資料と突き合わせた対照表を作成する。誰が見ても不正の存在が明らかになる資料。


クラウスがヴェーバー卿に面会し、資料の一部を渡した。全てではない。まずは核心部分だけ。反応を見るために。


三日待った。


四日目の朝、クラウスの顔色が変わっていた。


隠し書庫ではなく、市場の果物屋の裏手で、事前に決めていた緊急連絡用の場所で、クラウスは低い声で告げた。


「ギュンターが動いた」


「……どういうこと」


「俺たちが渡した資料の内容に合わせて、財務記録が書き換えられている。ピンポイントで。俺たちの証拠が指摘した箇所だけが修正されている」


顔の皮膚が一枚冷たくなった。


「ヴェーバー卿が」


「漏らした。ギュンターに」


嘘でしょう。


嘘であってほしかった。


「ヴェーバー卿は、ギュンターの協力者だった。あるいは、買収されていた。最初からか、最近かはわからない。だが結果は同じだ。証拠の一部が敵の手に渡った」


足が震えた。石畳の上で、膝が笑っている。


「私が……確認すべきだった。ヴェーバー卿の背景を、もっと調べるべきだった」


「俺が選んだ相手だ。俺の判断ミスだ」


「でも、私が止めなかった。暗号解読に集中していて、提出先の安全性を」


「レーマン嬢」


クラウスの声が、低く鋭くなった。周囲に人がいる市場では、名前で呼べない。


「今は犯人探しをしている場合じゃない。問題は、ギュンターが何を掴んだかだ」


冷静に。冷静に考えろ。


渡したのは証拠の一部。核心部分だが、全体ではない。暗号日誌の原本は私の手元にある。クラウスが持つ財務資料の全体像は渡していない。


だが。


「ギュンターは、『内部に協力者がいる』ことを確信した」


「そうだ。財務記録の矛盾を指摘できるのは、内部情報にアクセスできる人間だけだ。ギュンターは今、犯人を探している」


胃の底に石を飲んだような重さが来た。


「侯爵家に探りの手が」


「来るだろう。すぐに」


市場の雑踏が遠くなった。果物屋のおばさんの声も、荷馬車の車輪の音も、全部水の底から聞こえるように。


◇◇◇


それからの三日間は、息を殺すように過ごした。


隠し書庫での密会は中断。連絡は緊急用の合図のみ。社交界にも顔を出さない。


屋根裏のアパートで暗号日誌を抱え、窓の外を見つめる。


冬が近づいている。風が冷たい。銀木犀の季節は終わり、街路樹が葉を落とし始めている。


父の暗号日誌を何度も読み返す。解読済みの部分。父がギュンターの不正を追っていた記録。慎重に、少しずつ、誰にも気づかれないように。


父も、こうやって一人で抱えていたのだろうか。


一人で証拠を集め、一人で真実に迫り、そして、一人で捕まった。


私は同じ轍を踏もうとしている。


いや。同じではない。私にはクラウスがいる。


……いる、と言えるのだろうか。取引相手が「いる」というのは、それは。


頭を振る。今は感情の整理をしている場合ではない。


問題を整理する。


一、ヴェーバー卿経由で証拠の一部がギュンターに渡った。

二、ギュンターは「内部協力者」の存在を確信している。

三、侯爵家への探りが始まる可能性が高い。

四、暗号日誌の原本と、未提出の証拠は無事。

五、証拠の提出先を変更する必要がある。


五番が最大の問題だ。監査官ルートが使えなくなった。では、誰に渡す?


王に直接? 不可能。没落子爵の娘が国王に謁見する手段はない。

法務局? ギュンターの影響力がどこまで及んでいるか不明。

社交界で公開? 証拠の信頼性が担保されない。


どのルートにも穴がある。


計算が合わない。


「……父さん、あなたはどうするつもりだったの」


暗号日誌に問いかける。答えは返ってこない。


第三層の鍵が、まだ見つからない。父が最後に残したメッセージ。あそこに何かがあるはずだ。父が私だけに伝えたかった何か。


でも鍵がわからない。


壁に頭をもたれさせた。天井の染みを数える。前世の受験勉強で行き詰まった時と同じ姿勢。


あの時は、翌日になれば解法が見えた。でも今回は、翌日が来るかどうかもわからない。


◇◇◇


五日目の夜。


社交界で、クラウスと擦れ違った。


「相変わらず目障りだ、レーマン嬢」


合図だ。密会の合図。


でもクラウスの目は、いつもの皮肉を含んだ冷淡さとは違った。何かを急いでいる目。


夜、隠し書庫へ向かった。慎重に、慎重に。尾行がないことを何度も確認してから。


クラウスが待っていた。立ったまま。椅子に座っていない。


「ギュンターが俺の名前を挙げた」


「……何ですって」


「まだ確定ではない。だが財務卿補佐官の中で、資料にアクセスできる人間を洗い出している。俺は候補の一人だ」


灯りが壁に映すクラウスの影が、僅かに揺れた。


「候補は何人?」


「三人。だが、俺が一番怪しいと見られている理由がある」


「何」


「先代ブラント侯爵……俺の父が、生前にギュンターと対立していた記録がある」


歯を食いしばった。奥歯が軋む音が、自分の頭の中で響いた。


父同士の因縁。それが、今になって足枷になる。


「証拠は、まだ大丈夫なの」


「原本は君の手元だ。財務資料の写しは俺がここに隠してある。今のところ書庫は見つかっていない」


「今のところ」


「……そうだな。今のところ、だ」


灯りが一本、燃え尽きた。残りは二本。


「新しいルートを探す。監査官以外の手段で、証拠を届ける方法を」


「あてはあるの」


クラウスは少し黙った。


「……考えている途中だ」


つまり、ない。


闇の中で、二人とも黙り込んだ。


計画が崩れた。積み上げてきたものが、一箇所の見落としで崩れた。


私のせいだ。


提出先の安全性を確認しなかった。暗号解読に夢中で、全体の計画の脆弱性を見落とした。父と同じだ。一つのことに集中しすぎて、足元を見なかった。


「私のせいだ。また、私の判断ミスで」


拳がテーブルを叩いた。自分の手だった。痛みが遅れてじんと広がる。


「違う。落ち着いて聞けと言ったでしょう。提出前にヴェーバー卿の周辺を洗うべきだったのは私も同じ。あなただけの責任じゃない。でも……でも、私が暗号にばかり没頭していなければ」


論理が崩れている。自分でもわかる。感情が思考を追い越して、筋の通らない自責が口から出てくる。


窓のない書庫の空気が、じわりと冷えてきた。どこかの隙間から外気が忍び込んでいる。


「テレーゼ」


クラウスが何か言おうとした。でも私はそれを遮った。


「……今のは」


自分の口から出た名前に、一瞬遅れて気づいた。侯爵閣下ではなく、クラウス、と呼びかけていた。さっき、頭の中で。いや、口に出したのか? 出していない。出していないはずだ。


クラウスは特に反応しなかった。ただ続けた。


「テレーゼ。俺の判断ミスを、君が背負う必要はない」


暗号日誌を鞄に押し込み、書庫を出た。


走った。


足が勝手に動いていた。どこに向かっているのか、自分でもわからなかった。階段を駆け下りて、扉を押し開けて、外の空気がいきなり頬を叩いた。冷たい。冬の夜だった。


石畳を蹴って走った。角を曲がった。知らない塀が続いている。違う、こっちじゃない。でも戻れない。足が止まらない。


冬の風が顔を切る。涙ではない。風のせいだ。


走りながら、父の声が聞こえた気がした。


『テレ、もしお前がこれを読んでいるなら』


父さん。私は。


わからない道を、それでも走り続けた。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ