第5話 平手と涙と暗号の夜
「ご存知ですか? 最近の財務報告、お詳しい方が見ると少し……なんというか、数字の辻褄が合わないところがあるそうですわね」
社交の場で、さりげなく言葉を落とす。相手は財務卿派の男爵夫人。ギュンターの取り巻きの中では、最も噂好きな人物。
「まあ、数字が合わない? どういうことかしら」
「いえ、私のような素人にはわかりません。ただ、商人の間ではそういう話が出ているとか。噂ですけれど」
種を蒔く。直接的な告発ではなく、疑念の欠片を社交界に散布する。男爵夫人が他の夫人たちに話し、その夫人たちがまた別の誰かに話す。噂は水に落とした墨のように広がっていく。
「あら、でも財務卿閣下は清廉な方で——」
「ええ、もちろん。だからこそ、きちんと確認されれば安心できるのではないかしら」
にっこり。疑念と信頼を同時に差し出す話法。嘘は一つもついていない。
男爵夫人の眉が、ほんの少し曇った。種は植わった。
◇◇◇
問題は、その直後に起きた。
ホールの一角で、ギュンターの取り巻きの一人、ベルクハイム伯爵が声高に語っていた。
「しかしレーマン子爵の件は、実に見事な裁きだったな。あの男が横領犯でなければ、今頃まだ宮廷に居座っていただろう。娘が健気に社交界に出てきているのは……まあ、親の罪を知らぬ哀れさということか」
笑い声。取り巻きたちの、品のない笑い。
私はグラスを持つ手を見た。震えていない。震えていないことを確認してから、ベルクハイム伯爵の方を向いた。
「伯爵」
声は平らだった。自分でも感心するくらいに。
「父の件について何かご存知なのですか?」
「おや、聞こえていたか。いや、公知の事実を述べたまでだ」
「公知の事実。なるほど」
一歩近づいた。ベルクハイム伯爵が僅かに身を引く。
「では、もう一つ公知の事実を申し上げてよろしいかしら」
「……何だね」
「父は、冤罪です」
ホールが静まり返った。
「冤罪だと? 裁判で有罪判決が——」
「裁判の証拠に不備があったことは、法務局の記録に残っています。ご確認されてはいかがでしょう」
ベルクハイム伯爵の顔が赤くなった。恥をかかされた怒りだ。
「小娘が。身の程を——」
「身の程?」
私の中の何かが、切れた。
前世の合気道の師匠が言っていた。「力は最後の手段」。でも、最後の手段の出番が来てしまった。
手が動いていた。平手打ち。
ベルクハイム伯爵の頬に、乾いた音が響いた。
ホール全体が凍りついた。
「失礼、手が滑りました」
完璧な微笑み。
……手が滑ったのは本当だ。本当は殴るつもりだった。平手で済んだのは、むしろ自制心の勝利と言えるかもしれない。
ベルクハイム伯爵が何か叫んだ。取り巻きがざわめいた。私は踵を返し、ホールを後にした。
背中に刺さる視線。同情、驚愕、嘲笑。色々あっただろう。
でも一つだけ。ホールの反対側から、クラウスの視線を感じた。驚き。それから、別の何か。
◇◇◇
隠し書庫。
「派手にやったな」
クラウスの声に、非難の色はなかった。むしろ……いや、声色を読み取ろうとするのはやめよう。
「やりすぎた。反省してる」
嘘。反省していない。あの男の顔に手の感触が残っている。前世の師匠には叱られるだろうけど。
「ベルクハイムはギュンターの犬だ。明日にはギュンターに報告が行く」
「わかっている。でも……」
指の爪が手のひらに食い込む。きつく握りしめた拳を、膝の上に置いた。
「父を侮辱されて、黙っていられなかった」
書庫の奥の棚で古い革の背表紙が灯りを鈍く弾いている。椅子の背もたれが、背中に硬い。
「父は……冤罪だった。それは確実。暗号日誌の解読で、もう疑いの余地はない。父はギュンターの不正を記録していただけ。それなのに、全部の罪を着せられて、投獄されて」
早口になっていた。自分でもわかるくらいに。舌が思考に追いつこうとして、もつれる。
「獄中で病気になって。面会も許されなくて。最後に会えたのは」
喉の奥が灼けた。息を吸うだけで痛い。
「父さんは、一人で死んだ」
書庫の空気が重くなった。それだけ。
クラウスは何も言わなかった。慰めの言葉も、同情の言葉も。ただ、背中合わせの椅子の向こうで、黙っていた。
その黙りが……なんというか。
重くなかった。追い詰められるものではなく、ただそこにある気配。隣にいるという、それだけの。
「一人で死んだ。私が、まだ暗号の勉強をしてる間に。もっと早く気づいていれば。もっと早く解読に取りかかっていれば。いや違う、そもそも父が捕まる前に、私が……私が」
同じことを繰り返している。壊れたオルゴールみたいに、同じ旋律がぐるぐる回る。
「助けられた。助けられたはずなのに。暗号の技術はあったのに、何も。何もしなかった。私は、ただ」
鼻の奥がつんとした。視界の端がにじむ。
「……ごめんなさい。取り乱した」
クラウスはまだ黙っていた。
どれくらいそうしていたかわからない。灯りが少し弱くなった頃、クラウスが口を開いた。
「俺の父も、おそらく殺された」
私は振り返りそうになって、止めた。背中合わせのまま、聞く。
「事故ということになっている。馬車の転落。だが、あの日の天候は晴れだった。父の馬車の御者は三十年のベテランだった。事故を起こす要素がない」
「……ギュンターの」
「わからない。証拠がない。だから俺はここにいる」
二人の父。二人とも、宮廷の闇に飲まれた。
「だから、あなたも追っているのね」
「当然だ」
また間があった。でも今度は、さっきとは質が違った。
何かが、変わった気がする。利害の一致だけではない何かが、この薄暗い書庫の中で生まれかけている。
「……暗号の続き、やりましょう」
クラウスは黙って頷いた。
暗号日誌を開く。新しいインクの瓶を開ける。藍色。父と同じ色。
第二層の最後の部分が解読された。ギュンターの不正の核心に近づいている。証拠の隠し場所を示す記述。それはギュンターの私邸にある金庫。
「次はここを探る必要がある」
「ギュンターの私邸? それは」
「危険よ。わかっている。でも、帳簿の原本がそこにあるなら」
クラウスは腕を組み、壁にもたれた。沈黙が答えだった。
灯りが残り三分の一ほどになった頃、私は立ち上がった。
「今日のところは、ここまでにする」
椅子から立つ時、一瞬だけ目が合った。普段は背中合わせだから、あまり正面から顔を見ない。薄い灯りに照らされたクラウスの目が、舞踏会の時とは違う色をしていた。
何と名づけていいかわからない色。
「……おやすみなさい、侯爵閣下」
「気をつけて帰れ。また考え事に没頭して足元を見失うなよ」
「失礼ね。……気をつける」
たぶん。




