第4話 毒と茶と本音
尾行を撒くのは、暗号を解くより簡単だ。
王都の市場通りを歩く。干し葡萄を売る屋台の脇を抜け、路地を二つ曲がり、仕立屋の裏口から入って表口から出る。後ろをつけている男、ギュンターの部下だろう。その姿が視界から消えた。
念のため、さらに三つ角を曲がってから、全く別の方向へ歩く。目的地はブラント邸だが、そちらには向かわない。まずは市場で買い物をする。黒パンと燻製チーズ。いつもの夕食。没落令嬢の日常を演じる。
尾行者がいなくなったことを確認してから、日が暮れるのを待つ。
……前世なら、こういう作業はスマホのカメラで後ろを撮るだけで済んだ。便利な時代だった。今は五感だけが頼り。
◇◇◇
シャルロッテへの対処は、三日前に済ませた。
社交の場で、わざと「ブラント侯爵に借金の催促に行ったら門前払いされた」と愚痴をこぼした。聞こえるように。シャルロッテの侍女がいる席で。
シャルロッテ本人にも、別の場で偽情報を流した。
「最近、南部の商会から暗号解読の大口依頼が来ているの。忙しくて社交どころではなくて」
完璧な微笑みで。目線も声のトーンも制御して。左手はポケットの中に隠した。薬指を触る癖は、意識していれば抑えられる。
シャルロッテは「あら、お仕事があるのは良いことね」と笑った。信じたかどうかはわからない。でも、「ブラント邸に向かった理由」と「最近の行動範囲」に関しては、別の説明を植え付けた。
嘘をつくのは得意だ。
……得意なはずだ。
◇◇◇
隠し書庫。カモミール茶の香り。壁の高い本棚が薄い灯りに影を落としている。
今夜もクラウスが先に来ていた。椅子に座り、財務資料を広げている。
「遅かった」
「尾行を三人撒いてきたの。一人はギュンターの部下、あとの二人はたぶんただの物取り」
「物取りに遭うような道を歩くな」
「暗号のことを考えていたら、気づいたら知らない路地にいたのよ」
テーブルに暗号日誌を広げ、作業を始める。第二層の解読はほぼ完了した。第三層、父が意図的に別の暗号体系で覆った部分に取りかかっている。
鍵が見つからない。第三層の暗号は、第一層・第二層とは根本的に違う設計思想で組まれている。まるで、別の人間が作ったかのように。
……いや、そうじゃなくて。別の人間のために作ったのかもしれない。父が、特定の誰かだけに読ませたかった部分。
「進展はあったか」
クラウスの声。背中合わせの椅子から。
「第三層の鍵のパターンが掴めない。父が使った暗号体系に覚えがない」
「レーマン子爵は暗号の達人だったと聞いている」
「父の得意技は数学ベースの暗号よ。でもこの第三層は……なんというか、もっと個人的な鍵を使っている気がする」
「個人的な鍵」
「暗号学では、鍵の強度は秘密性に依存する。万人に知られない情報を鍵にすれば、解読は困難になる。父が使ったのは、おそらく父と、私にしかわからない何か」
クラウスは黙った。考えている気配。
「……それなら、解けるのは君しかいないということだ」
「そうね。問題は、何を鍵にしたか思い出せないこと」
子供の頃の記憶を手繰る。父と遊んだ暗号ゲーム。「テレ、この暗号を解いてごらん」。インクに染まった指。書斎の匂い。
答えはきっと、私の中にある。ただ、まだ見つけられていない。
「侯爵閣下」
「……何だ」
「あなた、社交界で『テレーゼなど歯牙にもかけない』と言ったそうね」
間があった。灯りの中でインクの瓶が鈍く光っている。
「誰から聞いた」
「市場の果物屋のおばさん。社交界の噂は使用人のネットワークであっという間に広がるのよ」
「……演技だと言ったはずだ」
「わかってる」
カップの縁を指でなぞった。カモミール茶が冷めかけている。
「わかってるけど」
言葉が止まった。続きを言うべきではない。これは取引だ。感情を持ち込む場所ではない。
でも。
「……ちょっと傷ついた」
小さな声。自分でも聞こえたかどうか怪しいくらいの。
背中越しに、クラウスの気配が変わった。椅子のきしむ音。振り返ろうとして、やめた、ような。
長い間。
「……新しいインクを持ってきた」
唐突に、クラウスが言った。テーブルの上に、小さな瓶が置かれる音。
「暗号解読に使うだろう。質の良い藍色のインクだ。たまたま余っていた」
たまたま。
暗号解読専用の高品質インクが、たまたま余る侯爵がいるものだろうか。
「……ありがとう」
「礼には及ばない。余り物だ」
余り物。
嘘が下手な男だ。いや、違う。嘘は上手いのに、こういう時だけ下手になる。
インクの瓶を手に取った。ガラス越しに、深い藍色が灯りを吸い込んでいる。父が使っていたインクと、同じ色だった。
偶然だろうか。
偶然だと思いたい。そうでないと、この男の気遣いの精度が怖くなる。
◇◇◇
作業の合間に、クラウスがギュンターの最近の動きについて話した。
ギュンターが財務記録の一部を書き換えている形跡がある。つまり、誰かに嗅ぎ回られていることに気づき始めている。
「信頼できる監査官がいる。ヴェーバー卿だ。父の代から付き合いがある」
クラウスはそう言った。書庫の壁にもたれ、腕を組んだまま。
「万が一の時は、ヴェーバー卿に証拠を預けることも考えている。王家の監査機関なら、ギュンターも手が出せない」
私は頷いた。監査官ルートは確かに有力だ。王の名の下に動く独立機関。ギュンターの権限が及ばない数少ない場所。
でも、包囲網は双方向に狭まっている。
私たちがギュンターの証拠に迫っているのと同じ速度で、ギュンターも何かを感じ取っている。
……計算が合わない、と思った。
この速度で情報が漏れるのは不自然だ。私とクラウスの行動は慎重を期している。シャルロッテの侍女の件も処理した。なのに、なぜギュンターは反応しているのか。
別の情報源がある?
それとも、ギュンターの側にも、私たちの動きを知る「目」がある?
考えすぎだろうか。
◇◇◇
屋根裏のアパートに帰り、窓際の小さな机に暗号日誌を広げる。新しいインクの瓶を隣に置く。藍色の光。
第三層の鍵を見つけなければ。父が残した最後のメッセージを読まなければ。
指先で暗号の文字列をなぞる。
『テレ、もしお前がこれを読んでいるなら』
父さん。鍵を教えて。
……答えは返ってこない。
代わりに、カモミール茶の残り香が鼻をかすめた。クラウスが淹れた茶。前世のコンビニの緑茶とは全然違う味がする。あっちは機械的に均一な味だったけれど、こっちは毎回微妙に濃さが違う。
今夜のは、いつもより少し甘かった。蜂蜜を多めに入れたのだろうか。
……考えてもしょうがないことを考えている。暗号に集中しなければ。
机の上の灯りを寄せて、解読を再開した。




