第3話 仮面舞踏会の綱渡り
鏡の前で、私は「敵の顔」を作る。
屋根裏の安アパート。窓から差す朝の光の中で、母の形見の真珠のイヤリングをつける。たったこれだけが、私がかつて貴族だった証拠。洗い晒しのリネンのワンピースを、唯一持っている上等なドレスに着替える。
社交界に出るのは月に二、三度。没落令嬢が顔を見せること自体が、ある種のメッセージになる。「私は折れていない」という。
……正確には、折れていないふりをしている。
前世の大学時代、就活で落ちまくった時も同じだった。平気な顔をして次の面接に行く。あの感覚に似ている。似ているけど、こっちの方が命がかかっている分だけ厄介だ。
鏡の中の自分に、社交用の微笑みを貼りつける。
よし。今日もちゃんと嘘がつける。
◇◇◇
舞踏会は退屈だ。音楽と笑い声と、見栄の応酬。
だが今夜は目的がある。ギュンター周辺の貴族たちの反応を観察すること。暗号日誌の解読が進んだことで、不正に関わっている可能性のある人物が絞られてきた。
ホールの端で果実水のグラスを傾けながら、視線を巡らせる。ギュンターは今夜は不在。代わりに姪のシャルロッテ・クレールが場を仕切っている。
蜂蜜色の巻き毛をきれいに結い上げた、二十三歳の伯爵令嬢。笑顔が完璧だ。完璧すぎるくらいに。
「あら、レーマンさん。今日もお一人? お気の毒に、お相手がいらっしゃらないのね」
シャルロッテが近づいてくる。取り巻きの令嬢たちを引き連れて。声は甘いのに、言葉の刃が鋭い。社交界の情報戦では、この女が一番厄介だ。
「ええ、一人の方が気楽ですもの。踊りたいお相手がいないのは残念だけれど、クレール嬢こそ、今夜も叔父様のお使いかしら?」
シャルロッテの目が一瞬だけ揺れた。
ほんの一瞬。それだけ。でも私は見逃さなかった。「叔父」という言葉に反応している。
「叔父のお使い? 何のことかしら」
「社交界の取りまとめ。大変なお仕事でしょうに」
にっこり。毒のない言葉で包んだ探り。シャルロッテも微笑みを返す。お互いに何も言っていないのに、水面下で刃を交わしている。
前世のゼミ発表の質疑応答より、よほど緊張する。
◇◇◇
「レーマン嬢。また壁の花か」
来た。
クラウスが現れる。濃紺のフロックコート、胸元に銀の懐中時計。社交界の「冷淡な毒舌家」の完全装備。
「壁の花ではなく、花を観察しているだけよ、侯爵閣下」
「観察するなら、もう少し目立たない場所でやることだ。君は隠れるのが下手だ」
周囲がまた笑う。犬猿の仲の恒例パフォーマンス。私たちがこうして皮肉を言い合うのを、社交界は娯楽として消費している。
クラウスの視線が一瞬だけ、シャルロッテの方に流れた。
あの女の動向を気にしている。
私も一瞬だけ頷く。ほとんど動きのない、首の傾き。クラウスの目が微かに細くなった。了解の合図。
こういう時だけ、犬猿の仲は便利だ。皮肉を交わしている間に、情報を交換できる。
「侯爵閣下のお洋服、今日は随分とお手入れが行き届いていらっしゃるわね。お出かけ前のご準備に、さぞ時間がかかったのでしょう」
「君に言われると皮肉にしか聞こえないな。……当然、身だしなみには気を使う」
周囲の笑い声。
この茶番を演じるたびに、胸の奥がちくりとする。
……いや、しない。しないことにする。
◇◇◇
舞踏会を辞去した後、いつものルートでブラント邸に向かう。
裏通りを選び、人目を避ける。月のない夜。石畳の上に自分の影すら見えない暗さ。
歩きながら、頭の中では第三層の暗号パターンが回り始めていた。父が使った鍵生成の規則。素数の列を逆順にして、そこに日付を組み合わせる。いや、日付ではなく曜日か。それとも月齢。月齢なら天文暦が必要で——
気づいたら、見覚えのない路地に立っていた。
また暗号に没頭して、周りが見えなくなっていた。前世でも本を読みながら歩いて電柱にぶつかったことがある。治らない癖だ。
背筋を正して、壁の傷を目印に引き返す。
二つ目の角を曲がった時、暗がりに人影があった。
肘の内側がぞわっとした。追手か。ギュンターの部下か。
「——考え事か」
クラウスだった。
壁に寄りかかって、腕を組んでいる。略装のシャツにベスト。舞踏会の正装を脱いだ後の姿。
「考え事なんてしていない」
「嘘だな。暗号のことを考えていただろう。さっき角を曲がり損ねて通り過ぎていた」
見ていたのか。最初から。
「暗号は解けるのに、目の前の角は見えないのか」
「……うるさい」
反論できない自分が悔しい。クラウスは壁から背を離し、無言で歩き始めた。ついてこい、ということらしい。
黙って後ろを歩く。クラウスの背中は広い。前世の感覚で言えば、百八十センチは超えている。
「なぜここにいたの」
「舞踏会の後、シャルロッテの侍女が君の後を追っていた」
爪先が石畳を引っ掻いた。足が強張って、一瞬つんのめりそうになる。
「……何ですって」
「君がこの方角に歩いていくのを、クレール家の侍女が見ている。俺が先回りして撒いた」
クラウスが振り返った。蝋燭のない暗がりで、表情は読めない。声だけが低く響く。
「うちの邸に向かっていると知れたら終わりだ。明日、シャルロッテに何か聞かれたら」
「借金の取り立てに行った、と答えるわ」
クラウスが少しの間、黙った。
「……それでいい。俺の方は『あの女に借金を返せと怒鳴り込まれた』と流す」
犬猿の仲らしい理由。借金の諍い。信じるかどうかは五分五分だけれど、他に説明がつかないよりましだ。
「ありがとう。侍女のこと、全く気づかなかった。暗号のことばかり考えていて」
「だろうな。何かに集中すると周りが消える人間は、尾行に気づけない」
それは嫌味なのか、それとも。
……忠告だ。きっとただの忠告。
邸の裏口に着いた。庭師用通路の前で立ち止まる。
「今夜は作業はなしだ」とクラウスが言った。「侍女に見られた以上、しばらくは慎重に動く」
「わかった」
「次は五日後。合図は」
「社交界で、あなたが私に『相変わらず目障りだ』と言ったら」
クラウスの口元が、暗がりの中でかすかに動いた。笑ったのか、呆れたのか。
「……いい合図だ。では五日後に」
踵を返して去っていくクラウスの背中を見送る。
シャルロッテの侍女が私を追っていた。つまり、シャルロッテは何かを疑っている。ギュンターの指示か、シャルロッテ自身の判断か。
いずれにしても、包囲網が少しずつ狭まっている。
帰り道。今度は暗号のことを考えないように、意識してクラウスが歩いた道を辿る。壁の傷ではなく、彼の歩幅を思い出しながら。
……前世のジーンズが恋しい。このドレスの裾、走るには本当に邪魔。
屋根裏のアパートに帰り着いた時、窓の向こうで虫の声が鳴いていた。
シャルロッテの目。あの一瞬の揺れが、頭から離れない。
あの女は何を知っている。何を隠している。
それとも、何かに苦しんでいるのか。
考えすぎだ。敵の内面を想像するのは危険な癖だ。
ベッドに横になり、目を閉じる。暗闇の中に、クラウスの声が残っている。
「暗号は解けるのに、目の前の角は見えないのか」
うるさい、と思いながら、少しだけ口元が緩んだ。




