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夜だけ味方の侯爵閣下  作者: 九葉(くずは)


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第2話 暗号と月のない夜

蝋燭の影が、羊皮紙の上で小さく揺れている。


インクの匂い。古い紙の匂い。そして、かすかに紅茶の香り。


隠し書庫に来るのは二度目だった。庭師用通路から邸に忍び込み、書斎の仕掛けを開ける。その手順にはもう迷わない。前回は帰り道で父の日誌の暗号パターンに気を取られて、気づいたら通路を通り過ぎていた。今回は壁の傷を目印にして、考え事を封じた。


テーブルの上に、湯気の立つカップが二つ。


「勝手に人の書庫で茶を淹れないでほしいんだけど」


「俺の書庫だ」


クラウスは椅子に深く腰掛けて、紅茶を啜っていた。隣の椅子に座れということらしい。背中合わせの配置。顔は見えない。


……前世なら、こういう状況を「不審」と呼ぶ。得体の知れない男が淹れた飲み物を、密室で飲む。


でも毒を盛るなら、こんな回りくどいことはしない。この男が私を殺したければ、もっと簡単な方法がある。


カップに口をつけた。カモミールに蜂蜜。意外と、悪くない。


「さっそく始めましょう。暗号日誌を持ってきたわ」


父の手帳を取り出す。使い込まれた革表紙。角が擦れて、色が変わっている。子供の頃、父の書斎でこの手帳を見かけるたびに「触るな」と言われた。父の筆跡が詰まったページを、今は自分の指で辿る。


インクの色が均一ではない。書かれた時期が違う。古い記述は薄茶色に退色し、新しい部分は深い藍色をしている。


「ここからここまでが第一層の暗号。単純な換字式で、これは解読済み」


クラウスがテーブルの上に数枚の紙を広げた。財務記録の写し。数字の横に赤いインクで印がつけてある。


「財務卿の公式報告と、実際の出納記録に食い違いがある箇所だ。金額にして」


「銀貨八万枚分、ですね」


クラウスの手が止まった。


「……先に計算していたのか」


「暗号日誌の第一層に、父が記録していた数字と合わせれば出ます。八万と二百三十七枚。端数まで合っている」


音が消えた。蝋燭の芯が微かに弾ける音だけが残っている。クラウスが背中越しに、振り返ろうとして止めた気配がした。


「父は気づいていたんだわ。全部。ギュンターの不正に」


こめかみの奥が熱くなった。手帳を持つ指に力がこもる。


……泣くな。泣いたら暗号が滲む。


「第二層の暗号に入る。こちらは換字式ではなく、転置式と多重暗号の組み合わせ。解読にはもう少し時間がかかる」


仕事の話に戻す。感情は後だ。今は頭を使う時間。


◇◇◇


解読は深夜まで続いた。


第二層の暗号は、父が独自に考案したものだった。前世の暗号学の知識がなければ手も足も出なかっただろう。ヴィジュネル暗号の変形。というか、鍵の生成方法に癖がある。父は数学が好きだった。素数を使った鍵生成。子供の頃に「素数は美しい」と語っていた父の声が、不意に蘇る。


「ここ。この部分」


クラウスが差し出した財務資料の一節と、解読された暗号文が噛み合った。


ギュンターが公金を流用した先。それは戦後復興の名目で設立された基金だった。基金自体は合法的に存在する。だが、基金から私的な口座への送金記録がある。金額は小さいものから始まり、年々大きくなっている。


「最初は国のためだったのかもしれない」


クラウスが低い声で言った。


「戦後復興の財源が足りなかった。だから少しだけ融通した。それが」


「癖になった」


私が引き取ると、クラウスは黙って頷いた。


父の暗号日誌は、その過程を克明に記録していた。最初は疑念。やがて確信。そして、証拠を集め始めた痕跡。


ページをめくる手が止まった。


解読された文章の中に、明らかに私に宛てた一節があった。


『テレ、もしお前がこれを読んでいるなら——』


続きは、まだ読めない。第三層の暗号で覆われている。


視界の端が滲んで、文字の輪郭が揺らいだ。


「レーマン嬢」


クラウスの声。背中越しに。


「……なに」


「今日はここまでにしよう」


時計を見る習慣はこの世界にはないけれど、蝋燭の残りで時間はわかる。三分の二ほど溶けている。深夜を過ぎた頃だ。


「もう少し」


「蝋燭があと一本しかない。次回までに補充しておく」


それは打ち切りの口実だ。本棚の奥にまだ数本あることは、私も気づいている。


……でも、今は従っておく。父の言葉を、こんな状態で読み進めたくない。指が震えている時に暗号を解くと、ミスをする。


「ありがとう」


口をついて出た言葉に、自分で驚いた。


クラウスは少し間を置いて、「蝋燭の礼か」と返した。


違う。……いや、そうだということにしておく。


◇◇◇


帰り道、月のない夜空を見上げた。


星だけが見える。前世の東京では見えなかった数の星。大学の帰り道にはいつもコンビニの灯りがあったけれど、この世界の夜は本当に暗い。


暗号日誌の中に、父の声が残っていた。


『テレ、もしお前がこれを読んでいるなら——』


続きを知りたい。でも、知るのが怖い。


父は何を伝えようとしたのだろう。何を託そうとしたのだろう。


左手の薬指を触る。何もない場所。父の形見の指輪は、没収された時に消えた。


「……計算が合わないな」


ひとりごとが漏れた。


父の暗号日誌の最後の数ページ。第三層の暗号で覆われた部分。あの暗号体系は、第一層・第二層とは全く異なるものだった。父が意図的に別の暗号を使っている。


なぜ。何を隠している。


それと、もうひとつ。


クラウスが言った言葉が引っかかっている。


「先に君のことを知っていた」


あの男は、私がこの書庫に来ることを予測していた。二度目の訪問で茶を用意していたのも、私の到着時間を読んでいたからだ。


なぜ、この男は私のことを知っている?


単なる情報収集だろうか。それとも。


答えはまだ出ない。暗号と同じだ。鍵が足りない。


石畳を踏む自分の足音だけが、夜の王都に響いている。銀木犀の香りが、どこか遠くから漂ってきた。秋の匂い。


父と最後に散歩した日も、こんな匂いがしていた気がする。


……いや。


それは記憶の捏造かもしれない。都合よく美化された思い出。本当は何の匂いもしなかったかもしれない。


でも、そういうことにしておきたかった。

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