第11話 父たちの暗号
法廷の扉が開いた。
高い天井。石の壁。冬の朝の光が、ステンドグラスを通して床に色を落としている。
前世の裁判ドラマとは違う。裁判官はいない。代わりに王家の勅命を受けた三人の審問官が、壇上に座っている。傍聴席には貴族たちが並んでいる。ギュンターの取り巻きも、そうでない者も。
ギュンター・ヴァレス侯爵は、被告席に座っていた。背筋がまっすぐだった。追い詰められた人間の顔ではない。まだ勝てると思っている顔。
私は証人席に向かって歩いた。
靴音が石の床に響く。左手の薬指に触れそうになって、触れなかった。今日は嘘をつかない。
クラウスは傍聴席の前列にいた。視線が一瞬だけ交差した。一瞬だけ。それで十分だった。
「証人、テレーゼ・レーマン」
審問官の声。私は証人席に立った。
「レーマン子爵家の長女として、父フランツ・レーマンの遺した暗号日誌の解読結果を証言いたします」
声は震えなかった。
◇◇◇
暗号日誌の解読結果を、一つずつ示した。
第一層。父が記録していた財務卿の不正。日付、金額、送金先。二十年にわたる横領の記録。
第二層。不正の全容。関与した人物の名前。帳簿の偽造の手口。国庫から消えた金の行方。
「これらの記録は、ブラント侯爵家が保管していた財務資料、および元被告側関係者から提供された帳簿の写しと完全に一致します」
ヨーゼフが用意した資料が、審問官の前に並べられた。シャルロッテが写しを取った帳簿の原本も。三つの資料が同じ結論を指し示している。
ギュンターの弁護側が反論した。
「証人は没落子爵の娘です。父の冤罪を晴らすためなら、証拠の捏造も辞さないでしょう。この暗号日誌なるものの信頼性は疑わしい」
「暗号体系そのものを検証いただければ、捏造でないことは明白です。この暗号は三層構造の多重暗号で、第二層にはヴィジュネル暗号の変形が使われています。解読結果が指し示す数値は、王家の税収記録と照合可能です」
論理で返す。感情ではなく、事実で。
ギュンターが立ち上がった。被告席から。審問官が制止しようとしたが、ギュンターは構わなかった。
「テレーゼ・レーマン。お前の父は横領犯として有罪判決を受けた男だ。その娘の証言に、どれほどの価値がある」
静かな声だった。法廷に慣れた男の、計算された声。五十二年の人生で培った弁舌。宮廷を動かしてきた声。
「父は冤罪でした」
「冤罪? 裁判で証明された事実を覆すと?」
「証明されたのは事実ではなく、あなたが作り上げた虚構です。父は不正を暴こうとした側であり、不正を犯した側ではない」
ギュンターは動じなかった。むしろ口元に笑みさえ浮かべた。
「暗号日誌なるものが本物だとして、それは二十年前の記録だ。当時の帳簿は既に公式に廃棄されている。照合のしようがない」
「照合は可能です。ブラント侯爵家の記録は公式廃棄の対象外でした。そして王家の税収台帳は永年保存です」
「侯爵家の記録も、この娘が改竄した可能性がある。何しろブラント侯爵と通じているのだから」
傍聴席がざわめいた。舞踏会でのギュンターの仕掛けが、ここで効いてくる。
「法務局の記録によれば、父の裁判で提出された証拠には不審な改竄の痕跡があります。これは先月、王妃の命により実施された再検証で確認されました」
傍聴席が再びざわめいた。王妃の介入。これが切り札だった。
ギュンターの顔から、余裕が消えた。だが完全には崩れない。この男は、追い詰められてからが強い。
「王妃殿下の再検証とやらが、政治的な意図に基づいていないと誰が保証する」
審問官の一人が眉をひそめた。王妃への間接的な批判。大胆な一手だった。
「保証するのは証拠そのものです」私は声を落とさなかった。「三つの独立した記録が同一の結論を示している。暗号日誌、侯爵家の財務資料、そして帳簿の写し。これらが全て捏造だというなら、三者が共謀して二十年分の数値を完璧に一致させたことになります。それが可能だとお考えですか」
ギュンターは答えなかった。初めて、言葉に詰まった。
◇◇◇
審理が進む中で、予想外のことが起きた。
「証人の追加申請がございます」
審問官が読み上げた名前に、法廷が静まった。
シャルロッテ・クレール。
傍聴席の後方から、シャルロッテが立ち上がった。蜂蜜色の巻き毛。顔色は蒼白だったが、目は真っ直ぐ前を見ていた。
腰骨に力が入った。背筋が勝手に伸びる。
あの日。「信じない」と突き放した。情報だけ受け取って、手を差し伸べなかった。
シャルロッテは証人席に立った。ギュンターの方を一度見て、目をそらさなかった。
「ギュンター・ヴァレス侯爵は私の叔父です。叔父が帳簿の改竄を行っていたことを、私は直接目撃しました」
法廷が凍りついた。
「証拠の隠滅を手伝えと命じられました。私は一度はそれに従いかけました。家族だからです。でも」
シャルロッテの声が震えた。でも止まらなかった。
「正しくないことを、正しくないと言える人間でありたかった」
ギュンターの顔が歪んだ。
シャルロッテの証言は、具体的で詳細だった。帳簿の所在、改竄の日時、関与した人物。内部にいた人間しか知り得ない情報。
私は、あの日、手を差し伸べるべきだったのだろうか。
わからない。今でもわからない。「信じない」と言った。情報だけ受け取って、冷たく突き放した。
でも、シャルロッテは自分の足でここに立っている。私が手を差し伸べたからではなく、自分で選んだから。それは、私が決めた結果よりも、ずっと強い。
◇◇◇
審理の終盤。
審問官が、暗号日誌の最後のページについて質問した。
「証人。暗号日誌には未解読の第三層が存在すると聞いています。その内容は」
「第三層は」
言葉が詰まった。
朝。法廷に向かう馬車の中で、窓から冬の陽光が差し込んでいた。白い光。低い角度の朝日。
あの光を見た瞬間、父の書斎が浮かんだ。子供の頃、朝早くに父の部屋に忍び込むと、同じ角度の光が机を照らしていた。インクの匂い。父の大きな手。暗号遊び。
『テレ、世界で一つだけの鍵を作ってごらん』
あの朝の光の中で、私は何と答えた?
『お父さんの名前。だってお父さんは世界で一人だけだから』
父の名前。フランツ。それが第三層の鍵だった。馬車の中で、震える手で日誌を開いた。解読は、法廷に着くまでの短い時間で終わった。
解読された最後のページには、暗号ではなく、手紙が書かれていた。
「第三層の内容は、父から私への手紙でした」
法廷が静まり返った。
「読み上げることを、お許しいただけますか」
審問官が頷いた。
手が震えた。暗号日誌の最後のページを開く。父の筆跡。インクの色が、他のページより少し薄い。最後に書かれたものだろう。
「『テレーゼ。この暗号を解いたなら、お前はもう立派な暗号解読者だ。父は誇りに思う』」
喉が詰まった。止めた。続ける。
「『私が集めた証拠は、一人では不十分だった。だが私には同志がいた。ブラント侯爵。クラウスの父君だ。彼もまた、宮廷の闇を正すために命を懸けていた』」
傍聴席のクラウスを見た。クラウスの目が赤かった。
「『もし私がこの手紙を直接渡せなかったのなら、きっと何かがあったのだろう。だがお前なら大丈夫だ。お前は父の誇りだ。そして、一人で戦わなくていい。信じられる人間を、見つけなさい』」
最後の一文は、読めなかった。声にならなかった。
でも、読まなくてよかった。その一文は、私だけのものだ。
「……以上が、父フランツ・レーマンの遺した暗号日誌の全てです」
法廷を見渡した。
ギュンターは、下を向いていた。
長い審議だった。審問官たちが壇上で書類を確認し、小声で言葉を交わし、証拠を一つずつ照合していく。傍聴席の貴族たちは身じろぎもせず待っている。私は証人席に座ったまま、自分の指先を見ていた。震えは止まっていた。
やがて、主席審問官が立ち上がった。法廷の空気が張り詰めた。
ギュンター・ヴァレス侯爵。公金横領、証拠改竄、冤罪の共謀。全ての罪状について有罪。
爵位剥奪。領地没収。投獄。
さらに、レーマン子爵フランツの有罪判決は取り消され、名誉回復の手続きが開始される。
二十年の嘘が、終わった。
◇◇◇
法廷を出た。
冬の空が、高い。白い雲が流れている。
クラウスが隣にいた。三歩の距離ではなく、一歩の距離でもなく、隣に。
「終わったのね」
「ああ」
「あなたの敵でいる時間が、一番つらかった」
言葉が自然に出た。考えるより先に。
クラウスが立ち止まった。私も立ち止まった。法廷の前の広場で。貴族たちが行き交う中で。
「……もう敵のふりはしなくていい」
「ええ」
「二度としない」
クラウスの声が、少しだけ震えていた。この男の声が震えるのを聞いたのは、初めてだった。
隠さなくていい。もう。
冬の陽射しの中で、二人は初めて、昼間の光の下で、味方として並んだ。
父の手紙の最後の一文が、胸の中で温かく光っている。
まだ誰にも言わない。いつか、クラウスにだけ話そう。
でも今は、この冬の空を見上げていたかった。
高い空だった。涙で少しだけぼやけて見えたけれど、それでも、晴れていた。




