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夜だけ味方の侯爵閣下  作者: 九葉(くずは)


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第1話 夜だけ味方の侯爵閣下

舞踏会の喧騒が、薄い壁一枚隔てたように遠い。


グラスの中で金色の酒が揺れている。二口しか飲んでいないのに、もう温くなっていた。壁際に立っているつもりはなかった。堂々とした顔で、一人でグラスを傾けている、そういう構図にしたかったのだけれど。


没落子爵家の娘が舞踏会に顔を出すだけで、周囲の視線が変わる。同情か、侮蔑か、あるいは好奇心。どれも要らない。


「おや、レーマンの娘か。まだこういう場に来る度胸があるとは」


ヴァレス侯爵、宮廷財務卿ギュンター・ヴァレスが、取り巻きを引き連れて近づいてくる。白髪交じりの髪を丁寧に撫でつけた五十代の男。清廉潔白な財務の番人。この国の誰もがそう信じている。


私だけが知っている。この男が父を陥れたことを。


「父のようになりたくなければ、黙って身の程を弁えることだ」


周囲が息を呑む。令嬢たちがこちらを窺い、紳士たちが居心地悪そうに視線をそらす。


私は微笑んだ。社交界で身につけた、完璧な微笑みだ。


「ご忠告、痛み入ります。ですが、父のようになれたら本望ですわ」


ギュンターの目が一瞬だけ細くなった。取り巻きが困惑し、周囲がざわめく。没落令嬢が、父の汚名を誇りだと言い放った。この場の誰にも、その意味は届かなかっただろう。


でも、それでいい。届かなくていい。


まだ、今は。


◇◇◇


「随分と大胆な発言だったな、レーマン嬢」


ギュンターが去った後、入れ替わるように現れたのは、濃紺のフロックコートに身を包んだ若い侯爵だった。ブラント侯爵クラウス。二十四歳で家督を継ぎ、財務卿補佐官として宮廷に出入りしている男。


社交界での評判は「冷淡な毒舌家」。


そして、私との評判は。犬猿の仲。


「ご心配なく、侯爵閣下。大胆なのは生まれつきですので」


「心配などしていない。君が場を荒らすと、後始末が面倒なだけだ」


周囲がくすくすと笑う。またやっている、と。ブラント侯爵とレーマンの娘の皮肉合戦。社交界の恒例行事。


クラウスの視線が一瞬だけ、私のグラスに落ちた。


温くなった酒。それだけで、この男は何かを読み取っただろうか。


……考えすぎだ。


私はグラスを置き、舞踏会を後にした。


◇◇◇


夜風が頬を撫でる。秋の始まりの、少しだけ冷たい風。


王都クレスティアの石畳を歩きながら、頭の中では別の計算が回っている。父が残した暗号日誌。解読はまだ三割。手元にある断片だけでは、ギュンターの不正を立証するには足りない。


足りないものは、わかっている。宮廷の内部資料だ。財務記録の原本。それと突き合わせなければ、暗号の意味は確定できない。


でも、没落子爵の娘に、宮廷の財務記録にアクセスする手段なんてない。


だから、今夜ここに来た。


ブラント侯爵邸。夜の闇に沈む白い外壁。正門ではなく、裏手の庭師用通路に回る。事前に調べた通り、夜間は施錠されていない。庭師が早朝に使うためだ。


邸の裏手から、書斎の窓を目指す。先代ブラント侯爵が秘密の書庫を持っていたという噂を、父の日誌の断片から読み取った。宮廷の不正文書が保管されている可能性がある。


窓は、開いていた。


……いや、そうじゃなくて。


正確には、窓の向こうに明かりが灯っていた。蝋燭の、揺れる灯り。


嫌な予感がした。けれど引き返せない。ここまで来て、手ぶらで帰るわけにはいかない。


書斎に忍び込み、本棚の仕掛けを探す。父の日誌にあった暗号、「三段目の右から七番目」。その本を引くと、壁の一部がわずかに動いた。


隠し書庫への扉。


開けた瞬間、蝋燭の灯りに照らされた顔と目が合った。


「——遅かったな」


クラウス・ブラントが、革張りの古い椅子に腰掛けていた。


◇◇◇


「なぜここを知っている」


「それはこちらの台詞だ、レーマン嬢」


隠し書庫は狭かった。壁一面の本棚、革張りの椅子が二脚、小さなテーブルの上に蝋燭立てとインク壺。窓はない。外界から完全に隔絶された空間。


クラウスは椅子に座ったまま、こちらを見上げている。舞踏会での冷淡な毒舌家の顔とは、微妙に違う表情だった。


「先代が残した書庫だ。父の死後、俺が見つけた。で、君は何を探しに来た」


嘘をつくべきだった。何か適当な理由をでっち上げて、逃げるべきだった。


でも、この男の目は嘘を見抜く目だ。少なくとも、そう見えた。


「……父の日誌に、ここの場所が暗号で記されていた」


言ってから、しまったと思った。なんで正直に答えているんだ、私は。


クラウスの目が変わった。警戒から、別の何かに。


「レーマン子爵の暗号日誌。まだ手元にあるのか」


「暗号だったから、没収時に見逃された。意味のないメモだと思われた」


言葉の隙間が広がった。蝋燭の芯が小さく爆ぜる音だけが響く。


クラウスが立ち上がった。テーブルの上に、数枚の紙を広げる。財務記録の写し。いや、正確には、財務記録の中で数字が合わない箇所に印をつけたメモだった。


「俺もこの書庫に用があった。先代が残した資料の中に、財務記録の矛盾を示す文書がある」


私は理解した。


この男も、同じものを追っている。


「ヴァレス侯爵の不正」


「声が大きい」


クラウスが低い声で遮った。そして、少しだけ間を置いてから。


「……だが、そうだ。俺は宮廷の腐敗を追っている。だが侯爵の立場では、証拠を持っていると知られた時点で消される」


「私は父の冤罪を晴らしたい。でも没落令嬢には宮廷の内部情報にアクセスする手段がない」


また、空気が止まった。


私たちは互いの手札を見せ合っていた。クラウスが持っているのは宮廷内部へのアクセス権。私が持っているのは暗号日誌の解読能力。


計算が合う。


「取引をしましょう」


私は言った。左手の薬指を、無意識に触っていた。父の形見の指輪があった場所。今は何もない。


「君が暗号を解読し、俺が宮廷の資料を持ち出す。そういう提案か」


「利害は一致するでしょう。あなたには暗号は解けない。私には資料が手に入らない」


クラウスは数秒、私の顔を見つめた。それから、視線が私の左手に落ちた。


「……いいだろう」


取引成立。


「ただし条件がある」とクラウスは続けた。「この関係は、この書庫の中だけだ。外では今まで通りの関係を続ける」


「犬猿の仲、ということね」


「そうだ。社交界で俺たちが協力していると知れたら、その瞬間に終わる」


わかっている。昼は敵。夜だけ味方。それがこの取引のルール。


「了解したわ、侯爵閣下」


私は空いていた方の椅子に腰を下ろした。クラウスと背中合わせの配置。顔を合わせないで済む距離。


——このエビ、前世の居酒屋の方が美味しかった。


……いや、違う。何を思い出しているんだ。舞踏会の食事の記憶が、こんな場面で蘇ってくるのは前世の癖だ。緊張すると関係ないことを考える。


「取引成立ね、侯爵閣下」


「では明後日の夜に。途中で暗号に没頭して、辿り着けなくなるなよ」


暗号のことを考えると周りが見えなくなる癖を、まさか見抜かれている。いや、知らないはず。今のは単なる嫌味か。


……単なる嫌味だ、きっと。


蝋燭の蝋がテーブルに垂れ、小さな水たまりのように固まっていく。秋の夜は深く、隠し書庫の中には古い紙とインクの匂いが満ちている。


父も、この匂いの中で暗号を書いたのだろうか。


私は左手の薬指をもう一度触り、それから手を膝の上に置いた。

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