第9話 水曜日 ふわふわのワイン
水曜日。一週間の折り返し地点。
この日を境に、週末へのカウントダウンが始まる……はずなのだが、社畜にとっての水曜日は、溜まった疲労が「常駐」し始める一番厄介な日でもある。
俺は約束通り、コンビニの酒コーナーで足を止めた。
あった、カップに入ったレンジで温めるタイプのホットワイン。それから、少し贅沢な厚切りのカマンベールチーズ。
「……背伸び、か」
彼女が言った言葉を思い出し、少しだけ気恥ずかしくなる。
いい年をしたおじさんが、夜中の公園で女の子とホットワイン。客観的に見れば浮ついているが、今の俺たちには、これくらいの「非日常」が必要だった。
いつもの公園。
ベンチに座る彼女は、今日はフードを被らず、夜風に髪をなびかせていた。
街灯の下、さらりと流れる髪が、どこかのシャンプーのCMよりもずっと綺麗で、俺は一瞬、足を止めてしまった。
「あ、おじさん。……本当に買ってきてくれたんだ」
「約束だからな。ほら、零さないように」
レンジで温めてもらったカップを手渡すと、ふわりとシナモンと果実の甘い香りが漂った。
「わぁ……。いい匂い。本当に、ちょっとだけ大人な感じです」
「俺はもう十分すぎるほど大人だがな。……じゃあ、一週間の真ん中に」
「乾杯」
プラスチックのカップが、小さく「ポコッ」と音を立てる。
一口飲むと、芳醇なワインの香りと熱が、喉から胃にかけてじんわりと広がっていく。
「……んん。美味しい。……身体の中から、とろけていきそう」
「チーズも食べろ。これがまた、ワインに合うんだ」
カマンベールを口に運びながら、俺たちはしばらく言葉を交わさなかった。
ただ、ワインの温かさと、夜の静寂を味わう。
「ねえ、おじさん。……どうして、おじさんのほうから何も聞かないでいてくれるんですか?」
「ん?」
「私が誰か、とか。どうしてここにいるのか、とか。普通、もっと気になりますよね?」
彼女はカップを両手で包んだまま、俺を上目遣いに見た。
その瞳は、どんな名作映画のヒロインよりも、真っ直ぐに俺を射抜いていた。
「……さあな。多分、俺が疲れてるからだろうな」
「疲れてるから?」
「ああ。君の正体を知って、サインを貰わなきゃとか、誰かに言いふらさなきゃとか……そういう『社会的な対応』をする元気が、俺には残ってないんだ。ただ、ここで温かいものを飲んで、しっぽり笑い合える。それだけで、俺のキャパシティはいっぱいなんだよ」
彼女は少しだけ意外そうに目を見開き、それから……。
くすくすと、鈴を転がすように笑った。
「……やっぱり、おじさんは最高ですね。……私、この一週間で、今の言葉が一番嬉しいかも」
彼女はそのまま、そっと俺の腕に自分の腕を絡めてきた。
ワインの酔いのせいか、それともこの空気のせいか。
彼女の体温が、いつもよりダイレクトに伝わってくる。
「……ちょっとだけ、酔っちゃったかもしれません」
「ワインのせいか? それとも俺の加齢臭か?」
「ふふ、ワインのせいです。……おじさん、明日は木曜日。……あと二日、頑張れますか?」
「……ああ。君とのこの時間があるなら、あと一ヶ月くらいは無休でもいける気がするよ」
それは、社畜としての誇張ではない、俺の本音だった。
水曜日の夜。
赤色のワインと、彼女の微かな体温。
俺たちの関係は、どこまでもゆっくりと、しっぽりと、深まっていく。




