第8話 火曜日 じんわりのたい焼き
火曜日。一週間のうちで、もっとも「現実」が重くのしかかってくる日だ。
月曜日に気合で片付けた仕事の後に、新たなトラブルが雨後の筍のように湧いてくる。今日も今日とて、客先での謝罪と、帰社してからの修正案作成に追われた。
「……あ。そうだ、たい焼き」
駅に向かう途中で思い出し、俺は少し遠回りをして、商店街の端にある老舗のたい焼き屋へ走った。閉店ギリギリ、滑り込みセーフ。
約束通り「つぶあん」を二つ。
紙袋越しに伝わる熱を、スーツの内ポケットに滑り込ませる。
こうすれば、冷え込む夜道でも少しは温かさが長持ちする。社畜が編み出した、ささやかな生活の知恵だ。
いつもの公園。街灯の下に、パーカーの彼女がいた。
今日はなんだか、いつもよりフードを深く被り、膝を抱えて小さくなっているように見えた。
「……待たせたか。パーカーちゃん」
「あ、おじさん……。……お帰りなさい」
顔を上げた彼女の鼻の頭が、ほんのりと赤い。寒さのせいか、それとも。
「ほら。約束のつぶあんだ。まだ熱いぞ」
「わぁ……。本当だ、熱々……。おじさん、どこに入れてたんですか?」
「内ポケットだ。俺の体温で保温しておいた」
「ふふ、おじさんの体温……。ちょっとだけ、加齢臭が移ってないか心配ですね」
「失礼な。石鹸の香りの柔軟剤を使ってるよ」
冗談を言い合いながら、並んで袋を開ける。
香ばしい皮の匂いと、甘いあんこの香りが、二人の間にふわりと広がった。
「パーカーちゃんは、どっちから食べる派だ? 頭か、しっぽか」
「私は……しっぽ。美味しいものは最後に取っておきたいから」
「俺は頭。一番熱いところを真っ先に攻略するのが、仕事の効率化と同じだ」
サクッ、といういい音が二つ。
はふはふと息を吐きながら、熱いあんこを口の中で転がす。
「……んーっ、美味しい……。しっぽまであんこ、詰まってますね」
「老舗のこだわりだからな。……どうだ、少しは元気出たか?」
彼女はたい焼きを頬張ったまま、少しだけ動きを止めた。
それから、ゆっくりと俺の肩に、昨日よりも自然に頭を乗せてきた。
「……今日、すごく怖かったんです。新しいドラマの顔合わせがあって。……みんなが私のことを『商品』として見てて、私の心がどこにあるかなんて、誰も気にしてなくて」
彼女の吐息が、俺のスーツに白くかかる。
いつの間にか彼女は「自分」について話してくれるようになった。
「でも。ここでたい焼き食べて、おじさんとどうでもいい話をしてると……私、ただの女の子に戻れる。商品でも芸能人でもなくて、ただの『つぶあん好きのパーカーちゃん』に」
俺は何も言わず、ただ、自分自身のたい焼きを噛み締めた。
俺にできることは、彼女に気の利いたアドバイスをすることじゃない。ただ隣にいて、一緒にたい焼きを食べて、この静かな夜を共有することだけだ。
「……俺も、会社じゃ『替えのきく部品』だよ。でも、ここで君といる時は、ただの『たい焼きを買ってくるおじさん』だ。それって、案外贅沢なことだよな」
彼女は俺の肩に頭を乗せたまま、小さく笑った。
「贅沢ですね。……世界で一番贅沢な、公園の夜です」
たい焼きを食べ終える頃には、彼女の微熱のような不安も、少しだけ冷めて落ち着いたように見えた。
「……ねえ、おじさん。明日は水曜日。一週間の真ん中ですね」
「ああ。折り返し地点だ。……何か、リクエストはあるか?」
「水曜日は……。ちょっとだけ、背伸びしたいな。……ホットワイン、とか」
「……またハードルの高いことを。コンビニにカップのがあれば、考えておくよ」
俺たちは、どちらからともなく立ち上がり、それぞれの「戦場」へと帰る準備を始めた。
「また明日。……おやすみなさい、おじさん」
「ああ。また明日な。……パーカーちゃん」
火曜日の夜。
たい焼きのしっぽに残っていたあんこの甘さが、帰り道の俺の心を、じんわりと温め続けていた。




