第6話 土曜日 お疲れのおでん
ついに、この時が来た。
土曜日、21時30分。タイムカードを切った瞬間のあの解放感は、何物にも代えがたい。
足取りは重い。全身の筋肉が悲鳴を上げている。けれど、心だけは羽が生えたように軽い。
「……終わった。本当に終わったんだ」
深夜の街を、自分でも分かるほどニヤニヤしながら歩く。
今夜は、一週間走り抜けた自分への、そして待っていてくれる彼女への「特別」が必要だった。俺はコンビニを三軒はしごして、最高の布陣を揃えた。
いつもの公園。
ベンチに近づくと、彼女は今日、珍しく立って待っていた。
遠くからでも分かる、あの大きなシルエット。
「おじさん! お疲れ様です!」
彼女がパッと顔を輝かせ、トコトコと駆け寄ってくる。
その仕草が、どこか懐いた子犬のようで、俺の心は一気に溶かされた。
「ああ、ただいま。……約束通り、ボロボロになりながらも帰還したよ」
「お帰りなさい。本当に、よく頑張りましたね」
彼女はそう言って、俺のスーツの袖をそっと引いてベンチへと促した。
俺は「よっこいしょ」と、もはや隠しきれないおじさん臭い声を漏らして腰を下ろす。
「さあ、パーカーちゃん。今夜は土曜の夜だ。俺の唯一の休み前だからな、奮発したぞ」
レジ袋から取り出したのは、保温容器に入ったコンビニの『おでん』。
大根、たまご、しらたき、もち巾着。
そして、もう一つの袋からは、温めた『ホットアップルティー』。
「わあ……おでん! 最高のチョイスです!」
「だろ? この出汁の匂いだけで、一週間分の毒素が抜けていく気がする」
二人で並んで、おでんの容器を膝に乗せる。
立ち上る湯気が、二人の顔を優しくぼかした。
彼女は、出汁の染みた大根をハフハフと言いながら口に運び、幸せそうに目を細める。
「……んん、しみる……。ねえ、おじさん。明日は日曜日。本当に、何も予定ないんですか?」
「ああ。14時くらいまで寝て、そこから近所のスーパーで半額の惣菜を買うだけの、枯れた休日だよ」
「……贅沢ですね。私、明日は朝から夜まで、ずっとカメラの前で笑ってなきゃいけないから」
彼女は少しだけ寂しそうに、おでんの出汁を啜った。
芸能人。俺とは住む世界が違うはずなのに、このベンチにいる時だけは、彼女の方がどこか「帰る場所」を探している迷子のように見えた。
「……じゃあ、俺が君の分まで休んでおいてやるよ。俺が寝てる間、君の疲れも俺が引き受けておく」
「何それ、超能力? ……でも、おじさんがそう言ってくれるなら、頑張れるかも」
彼女はふふっと笑い、それから、少しだけ躊躇するようにして、俺の肩に頭を預けてきた。
パーカーの柔らかい感触と、彼女の体温が、厚いコート越しに伝わってくる。
「……ちょっとだけ、このままでいいですか。明日一日分、しゅっぽりエネルギーをチャージしたいんです」
「……ああ。好きなだけチャージしろ。俺の身体は、疲れは溜まってるが、頑丈さだけが取り柄だからな」
夜の公園、おでんの匂い、甘いアップルティー。
時が止まったような錯覚に陥る。
明日は日曜日。仕事に行かなくていい。
今この瞬間、俺は世界で一番幸せな社畜だった。
「……ねえ、おじさん」
「……なんだ」
「月曜日。……また、新しいお話、持ってきてくれますか?」
小さな、消え入りそうな声。
俺は彼女の頭の重みを感じながら、深く頷いた。
「ああ。とっておきのを、探しておくよ」
冬の星座が、少しだけ近くに見えた気がした。




