第4話 木曜日 魂を救うどら焼き
今日の仕事は、嵐のあとの静けさのようだった。
大きなトラブルこそなかったが、溜まっていた事務作業を淡々とこなすうちに、脳のガソリンが完全に切れた。
こういう時は、身体が「糖分」と「酸味」を求めて悲鳴を上げる。
「おじさんの『一番おいしい』、か……」
コンビニの棚の前で、俺は少しだけ悩んだ。
彼女のようなキラキラした女の子に、これを勧めていいものか。
けれど、嘘をつくのも性に合わない。俺が深夜のオフィスで何度こいつに救われてきたか、それを教えることにした。
公園のベンチに着くと、彼女は今日、少し身を乗り出すようにして待っていた。
「あ、来た! おじさん、今日は何?」
「……これだ。俺の魂の救済セット」
袋から取り出したのは、ホットの『はちみつレモン』。
そして――『あんバターどら焼き』。
「……どら焼き? しかもバターが入ってる」
「そう。ただのどら焼きじゃない。この背徳的な脂質と糖分の暴力が、疲れた脳に直接効くんだ。それに、この酸っぱいレモンで流し込むのが、社畜流の『整い』さ」
俺はどら焼きを一つ、彼女に手渡した。
彼女はまじまじとパッケージを見つめ、「バター……これ、絶対太るやつだ」と呟きながらも、その手はすでに袋を開けていた。
「いただきます」
小さな口が、厚みのあるどら焼きに食らいつく。
咀嚼した瞬間、彼女の瞳がぱぁっと見開かれた。
「……んんっ! おいしい……! 何これ、バターがじゅわってして、あんこが……!」
「だろ? 健康とかダイエットとか、そういう言葉を一度忘れて食べるのがコツだ」
「最高です、おじさん……。私、こういうの、普段はマネージャーに止められてて……」
ふと、彼女が漏らした言葉。
マネージャー。やはり、彼女はそちら側の世界の住人なのだ。
「……大変だな。食べるものまで決められてるのか」
「ん。……『君はみんなの理想なんだから』って。でも、理想の私じゃない、ただの私は……今、このどら焼きを食べてる時が一番幸せかも」
彼女ははちみつレモンを一口飲み、ふはぁ、と長い溜息をついた。
その顔は、街灯の光に照らされて、どんな映画のワンシーンよりも綺麗に見えた。
「おじさんは、どうして私に名前を聞かないんですか?」
ふいに投げかけられた問いに、俺は少しだけ考えた。
「……名前を知ったら、きっと今のこの時間が壊れる気がするからな」
「壊れる?」
「ああ。君が誰であっても、俺にとってはここで一緒にコーヒーを飲んだり、どら焼きを食べたりする『パーカーの君』だ。それ以上に重要なことなんて、今の俺にはないよ」
彼女は少しだけ驚いたように目を見開き、それから、今までで一番柔らかい笑みを浮かべた。
「……変なおじさん。でも、そういうの、嫌いじゃないです」
彼女はベンチの上で膝を抱え、俺の方に少しだけ重心を預けてきた。
肩が触れ合うほどではない。けれど、彼女から漂う微かな花の香りと、どら焼きの甘い香りが、夜の空気の中で混ざり合う。
「ねえ、おじさん。……明日は、何もしなくていいです」
「ん?」
「ただ、隣に座ってて。……お話、もっとしたいから」
その言葉に、俺の胸の奥が少しだけ、しゅっぽりと温かくなった。
「……ああ。明日は、何も買わずに来るよ」
「ふふ、それはそれで寂しいから、お茶くらいは持ってきてくださいね」
冗談っぽく笑う彼女の横顔を眺めながら、俺は残り半分のどら焼きを口に放り込んだ。
甘くて、少ししょっぱくて。
明日もまた、この公園に来る理由ができてしまった。




