第2話 火曜日 癒しのエクレア
定時を二時間過ぎた頃、ようやくパソコンの電源を落とした。
目の裏が熱い。肩はコンクリートでも詰まっているかのように重い。
「……甘いもの、か」
ふと、昨夜の約束……というにはあまりにも頼りない、あの子の言葉を思い出した。
駅前のコンビニに寄り、スイーツコーナーの前で立ち止まる。
普段の俺なら見向きもしない、きらびやかなパッケージの棚だ。
高級そうなプリンか、それとも定番のシュークリームか。
迷った末に、俺は少しお高めのエクレアを二つと、今日もホットコーヒーを二つ買った。
夜の公園は、昨日よりも少しだけ冷えていた。
昨日のベンチが見えてくる。いるかは分からなかった。
でも覗いてみるとそこには、やはりあのパーカーの影があった。
「……待ってたわけじゃないんだ。たまたま、帰り道だからな」
自分に言い訳をしながら、ゆっくりと近づく。
彼女は、俺の足音に気づくと、フードの中からひょいと顔を覗かせた。
「あ、おじさん」
「……生きてたか」
「大げさですよ。……で、約束のものは?」
彼女は期待に満ちた瞳をこちらに向ける。
俺はレジ袋を少し持ち上げて見せた。
「エクレアだ。それと、今日もコーヒー」
「わぁ、やった」
彼女が嬉しそうにベンチを叩き、自分の隣を空ける。
俺はそこに腰を下ろし、袋からエクレアを取り出した。
「はい」
「ありがとうございます。……ん、これ高い方のやつだ。おじさん、太っ腹」
「独身貴族のささやかな贅沢だよ。仕事が地獄だった分、これくらいしないと割に合わない」
二人で並んで、エクレアの袋をカサカサと開ける。
チョコの甘い香りと、冷たい夜の空気が混ざり合う。
彼女は小さな口で、エクレアを一口頬張った。
「んんーっ、おいしい……」
本当に幸せそうな、蕩けるような声だった。
その顔は、やはりどこかで見たことがあるような気がしてならない。けれど、今の彼女はただの「甘いもの好きの女の子」にしか見えなかった。
「……今日は、嫌なことなかったか?」
俺がコーヒーを啜りながら尋ねると、彼女はもぐもぐと口を動かしながら、少しだけ視線を落とした。
「……ん。昨日よりは、マシ。でも、ずっと誰かに見られてる気がして、疲れちゃった」
「有名人は大変だな」
「……え?」
彼女の手が止まる。
しまった、と思ったが、俺はわざと平然を装った。
「いや、それだけ顔が小さくて綺麗なら、どこに行っても目立つだろうと思ってな。学校とか、バイト先とか」
「……なんだ。そういうこと」
彼女はホッとしたように息を吐き、またエクレアを齧った。
「おじさんは? 今日も上司に絞られた?」
「ああ。俺の書いた企画書が、いつの間にか部長の功績になってたよ。社会の縮図だね」
「うわ、最悪」
「まあ、給料さえ貰えればいいさ。……こうして、夜に甘いものも食べられるしな」
公園の街灯が、パチパチと音を立てて明滅している。
遠くで終電を知らせるアナウンスが微かに聞こえる。
俺たちはそれ以上、何も話さなかった。
ただ、隣り合って座り、エクレアを食べて、コーヒーを飲む。
名前も、年齢も、職業も、あえて踏み込まない。
ただの「おじさん」と、パーカーの「君」。
その距離感が、今は一番心地よかった。
「……ねえ、おじさん」
「ん?」
「明日は、あったかいココアがいいな」
「……注文が多いな。気が向いたらだ」
「ふふ、絶対ですよ」
彼女は空になった袋を丁寧に畳むと、俺の方を見て小さく手を振った。
パーカーの隙間から見えた笑顔は、昨日よりも少しだけ、俺の心を軽くしてくれた。
明日の仕事も、まあ、なんとかなるだろう。
コンビニの袋を握り締め、俺は家路についた。




