第11話 金曜日・土曜日 二人きりのコーヒー
金曜日の夜。街中が解放感に浮き足立つ中、俺の肩にはまだ「土曜日出勤」という重石が乗っていた。
けれど、足取りは不思議と軽い。
駅前のコンビニで、俺は少しだけ迷ってから、一番高いホットココアを二つ買った。それと、レジ横でふっくらと蒸かされていた、期間限定の特製肉まんを二つ。
いつもの公園。
街灯の下、ベンチに座るパーカーちゃんは、今日はいつもよりずっと小さく見えた。フードを深く被り、膝を抱えて、まるで夜の闇に溶け込もうとしているみたいだ。
「……パーカーちゃん。生きてるか」
「あ……。おじ、さん……」
顔を上げた彼女の瞳は、少しだけ潤んでいた。
明日から、彼女にとっての「大きな戦い」……ライブが始まる。何千人もの期待を背負う重圧は、しがない社畜の俺には想像もつかない。
「ほら。これ飲んで、一旦全部忘れろ。金曜日の夜くらい、自分を甘やかしていいんだ」
手渡したココアの熱に、彼女の指先が微かに震える。
二人で並んで、熱々の肉まんを割った。白い湯気が、二人の間の冷たい空気をふんわりと和らげる。
「……美味しい。……おじさん、私、明日が来るのが怖かったんです。みんなをガッカリさせちゃいけないって思うと、足がすくんじゃって」
「そうか。……なら、こう考えろ」
俺はココアを一口啜り、夜空を見上げた。
「明日のライブ会場にいる何千人は、君の『完璧な姿』を見に来るのかもしれない。でも、この公園のベンチだけは、君がどれだけボロボロでも、どれだけ弱虫でも、ただ座ってていい場所だ。……俺も、ただの『おじさん』として、ここにいる」
彼女は肉まんを頬張ったまま、じっと俺の横顔を見た。
「だから、怖くなったらここを思い出せ。コンビニのココアと、肉まんと、冴えない社畜の世間話。……ここがある限り、君はどこへ行っても大丈夫だ」
彼女はゆっくりと、本当にゆっくりと、俺の腕に頭を預けてきた。
「……そっか。そうですね。……私、ここがあるなら、明日も笑える気がします」
金曜日の夜。
二人の距離は、ココアの湯気越しに、静かに重なり合っていた。
***
土曜日、23時過ぎ。もう少しで日をまたぐ頃。
ついに、俺の一週間が終わった。
明日は日曜日。唯一の、何もしなくていい日。
疲労はピークを超え、意識は朦朧としている。けれど、俺の足は吸い込まれるようにいつもの公園へと向かっていた。
手元には、二つの缶コーヒー。
最初の日と同じ、なんてことのない、ブラックと微糖。
ベンチには、今日も彼女がいた。
ライブの初日を終えたはずの彼女は、どこか清々しい、けれどひどく疲れた顔で夜空を見上げていた。
「……お疲れ様、パーカーちゃん」
「……お帰りなさい、おじさん」
俺が隣に座ると、彼女は自然に俺の方へ寄り添ってきた。
どちらからともなく、カパッ、と缶を開ける。
夜の公園に響く、いつもの音。
「……今日は、どうだった」
「最高でした。……でも、やっぱりここが一番落ち着きますね」
彼女は缶コーヒーを大切そうに両手で包み、目を閉じた。
「おじさん。……私、明日からも、明後日からも、ずっと走り続けなきゃいけない。名前も、顔も、全部さらけ出して。……でも、ここに来る時だけは、ただの『パーカーを羽織った、君』でいさせてくれますか?」
俺は、一口飲んだ缶コーヒーの苦味を噛み締めた。
彼女の正体が誰であっても。どれだけ遠い存在になっても。
夜の公園の、この数十分だけは、世界で一番贅沢な沈黙が流れている。
「……当たり前だろ。俺だって、明後日の月曜日にはまた、名もなき社畜に戻るんだ。……だから、ここでだけは、お互い何者でもない時間を過ごそう」
公園の街灯が、パチパチと瞬いている。
遠くで終電の音がして、夜がさらに深まっていく。
「ねえ、おじさん。……月曜日、また会えますか?」
「……ああ。何か、温かいものを買っておくよ」
「ふふ。楽しみにしてます」
名前も、連絡先も、知らないまま。
ただ、月曜日の夜にここにいる、という不確かな約束だけが、俺たちの明日を繋いでいる。
社畜の俺と、芸能人の彼女。
二人の物語は、何かが劇的に変わるわけじゃない。
ただ、明日もまた、この「しっぽり」とした時間が続く。
それだけで、この世界もそう悪くはないと思えるのだ。
夜風が、二人の吐息を白く混ぜ合わせ、暗闇の中に消えていった。
これにて終わりです!
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