第10話 木曜日 あつあつ焼き芋
木曜日。
この日、社畜の精神状態は一周回って「無」になる。
月曜日の絶望も、火曜日の焦燥も、水曜日の背伸びも通り越し、ただ淡々と、壊れた機械のようにキーボードを叩く。
ふと窓の外を見ると、もう夜の22時を回っていた。
「……あ、そういえば」
ふと思い出し、俺は会社の近くにあるスーパーの入り口に寄った。
この時間、運が良ければまだ残っているはずだ。
……あった。保温ケースの中で、最後の一組が静かに眠っていた。
今夜のしっぽりセットは、黄金色に輝く『石焼き芋』。それと、香ばしい香りの『ホットほうじ茶』だ。
公園のベンチ。
パーカーちゃんは、今日は少し眠そうに、ベンチの背もたれに頭を預けて目を閉じていた。
俺が近づくと、彼女は薄く目を開け、ふにゃりと力なく笑った。
「あ、おじさん……。……お疲れ様、です」
「ああ、お疲れ。今日は一段とボロボロだな」
「ん……。一日中、ダンスのレッスンだったんです。足が、もう自分のじゃないみたい……」
俺は隣に座り、新聞紙に包まれた熱々の焼き芋を取り出した。
途端に、甘く香ばしい、冬の幸福を煮詰めたような匂いが立ち上がる。
「ほら。これを食って、人間としての感覚を取り戻せ」
「わぁ……! 焼き芋だ! ……しかも、すごくいい匂い」
俺は焼き芋を半分に割った。
中から真っ白な湯気が勢いよく立ち上り、彼女の少し青ざめていた頬を赤く染める。
「はい、大きい方。しっぽまで蜜がたっぷりだぞ」
「ありがとうございます……。はふ、はふっ……熱い……けど、甘い……!」
彼女は火傷しないように慎重に、けれど夢中で焼き芋を頬張った。
その顔を見ていたら、俺の脳内にこびりついていた無機質なエクセルの表が、少しずつ消えていくのが分かった。
「……ねえ、おじさん。木曜日って、どうしてこんなに長いんでしょうね」
「多分、週末の足音が聞こえ始めるからだろうな。意識する分、時間がゆっくり流れるように感じるんだ」
俺はほうじ茶を啜り、一息つく。
「でも、こうして焼き芋を食べてると……今日一日の、あんなに嫌だった出来事が、どうでもいいことのように思えてくるから不思議だ」
「ふふ。それはきっと、おじさんの魔法ですよ」
「俺のじゃなくて、焼き芋の魔法だろ」
彼女は満足そうに最後の一口を飲み込むと、ふぅ、と長い溜息をついて、俺の腕に自分の細い腕を絡ませてきた。
昨日のワインの時よりも、もっと自然に。もっと、当たり前のように。
「……明日は、金曜日。おじさんは、あと二日ですね」
「ああ。明日の夜を越えれば、本当の週末だ。……パーカーちゃんは?」
「私は……。土曜日も、日曜日も、ずっとお仕事です。……でも、明日の夜もここでしっぽりできるなら、全然平気な気がします」
彼女の体温が、焼き芋の余熱と一緒に、俺の右腕に伝わってくる。
「……おじさん。私の名前、知らなくていいって言ってくれましたよね」
「ああ。今でもそう思ってるよ」
「じゃあ……。私がもし、すごく遠くに行かなきゃいけなくなっても……ここで待っててくれますか?」
不意に投げかけられた、少しだけ切ない問い。
彼女の芸能人としての運命が、この平穏な夜をいつか壊すことを、彼女自身が一番分かっているのかもしれない。
俺は少しだけ時間を置いてから、彼女の肩を自分の肩で軽く押した。
「俺は社畜だからな。会社が潰れるか、この公園がなくなるまでは、毎日ここを通るよ。……だから、君が来たい時に来ればいい。俺はいつも通り、何か温かいものを買って座ってるだけだ」
彼女は俺の腕を握る力を、ほんの少しだけ強めた。
「……そっか。……嬉しいです」
木曜日の夜。
焼き芋の甘さと、ほうじ茶の香ばしさ。
そして、言葉にしない約束。
一週間の終わりまで、あと少し。
俺たちの「しっぽり」は、静かに、けれど確かに深まっていた。




