第1話 月曜日 間違いのコーヒー
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夜の公園というのは、どうしてこうも「社会の終わり」みたいな匂いがするんだろう。
湿った土の香りと、遠くを走る車の走行音。そして、街灯に照らされた自分の影が、嫌に細長く、頼りなく伸びている。
「……はぁ」
本日何度目か数えるのをやめた溜息が、夜の闇に溶けていった。
ついさっきまで、俺は駅前の居酒屋にいた。上司の「ちょっと一杯どうだ?」という、断る権利など存在しない呪文に拘束され、二時間。延々と続く説教と自慢話。ビールはぬるく、焼き鳥の脂は白く固まっていた。
解放された時、俺の精神は限界だった。
無意識のうちに立ち寄ったコンビニで、何を思ったのかホットコーヒーを二つ買っていた。
レジ袋の中で、二つのカップがコトコトと音を立てる。
一つは自分用。もう一つは……。
「……疲れてんな、俺」
誰に渡すあてもない。ただ、温かいものを二つ持っていれば、この虚しさが半分になるような気がしたのかもしれない。
最寄り駅からの帰り道。普段なら素通りする公園の入り口を、今日は吸い込まれるように潜り抜けた。
冷え込んできた夜風が、アルコールで火照った頬に心地いい。
ふと、視線を上げた。
公園の隅、街灯から少し外れたベンチに、先客がいた。
ダボっとしたオーバーサイズのパーカーを深く被った女の子だ。
フードの隙間から、わずかに艶のある髪が覗いている。彼女は膝を抱えるようにして座り、じっと動かずに地面を見つめていた。
いつもなら、関わらないように足早に通り過ぎるところだ。
不審者だと思われたくないし、余計なトラブルは御免だ。
けれど、今日の俺はおかしかった。
酒のせいか、それともこの二つのコーヒーのせいか。
誰でもいいから、この「社会人としての死」を少しだけ分かち合いたかった。
「……あの」
声をかけると、彼女の肩が小さく跳ねた。
ゆっくりと顔を上げた彼女の瞳が、街灯の光を反射してキラリと光る。
パーカーの奥に隠れた顔はよく見えないが、鼻筋が通っていて、驚くほど肌が白い。
「それ、良かったら。飲みきれなくて」
俺は、コンビニの袋からまだ封を開けていないコーヒーを取り出し、彼女に差し出した。
我ながら、ナンパにしては最悪の台詞だ。
彼女は戸惑ったように俺と、差し出されたコーヒーを交互に見た。
「……毒とか、入ってないですか?」
声を聞いて、ドキリとした。
鈴を転がすような、けれどどこか寂しげで、耳の奥に残る不思議な響き。
「おじさんにそんな度胸はないよ。ただの、買い間違いだ」
「おじさん……?」
「ああ、心はもう定年退職間近の社畜さ」
自虐的に笑うと、彼女は少しだけ警戒を解いたようだった。
細い指がパーカーの袖から伸びて、コーヒーを受け取る。
「……いただきます。ちょうど、温かいものが飲みたかったから」
彼女は隣を指差した。座ってもいい、という合図だろうか。
俺は少し距離を置いて、ベンチの端に腰を下ろした。
二人で並んで、カパッと蓋を開ける。
立ち上る湯気が、二人の間の冷たい空気をふんわりと和らげた。
「……生き返る」
俺が漏らすと、隣で「ふふっ」と小さな笑い声が聞こえた。
「大げさですね」
「社畜にとっては、この一口が命を繋ぐんだ」
「ふーん……。おじさん、お仕事大変なんだ」
彼女はコーヒーを一口啜り、ふぅーっと息を吐いた。
その横顔は、夜の闇に紛れているはずなのに、なぜかそこだけ発光しているような透明感があった。
どこかで見たことがあるような、そんな既視感が脳の端を掠める。
けれど、こんな綺麗な子が、夜中の公園で一人ぼっちでいるはずがない。きっと、俺の疲れが見せた幻覚か何かだろう。
「君こそ、こんな時間に何してるんだ。……家出か?」
「家出、みたいなものです。……ちょっと、息が詰まっちゃって」
彼女は足をぶらぶらと揺らした。
パーカーの袖で隠れた手で、大切そうにカップを包み込んでいる。
「そうか。……まあ、夜の公園は静かでいい。コーヒーが冷めるまでは、ここにいても罰は当たらないだろう」
「……そうですね」
名前も知らない。素性も知らない。
疲れ切った中年一歩手前の男と、パーカーを被った謎の少女。
会話は途切れた。けれど、不思議と気まずさはなかった。
ただ、コーヒーの熱と、夜の静寂が、二人を包み込んでいた。
「ねえ、おじさん」
「……なんだ」
「次、会う時は。……甘いものがいいな」
彼女はいたずらっぽく笑って、最後の一口を飲み干した。
それが、俺と彼女――後に国民的アイドルだと知ることになる『君』との、最初の夜だった。
社畜の俺の、しっぽりとした日常は、ここからゆっくりと動き出す。




