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◇ほんとはお昼に食べたかったおばんざいを口にして

 消失の翌朝、

 ナコハはいつもより少し早く目が覚めた。


 目覚ましが鳴る前だった。

 理由はない。

 ただ、起きてしまった。



 台所に立ち、棚の奥から輪っぱの弁当箱を取り出す。

 蓋を外したとき、木の匂いがふっと立った。


 冷蔵庫の一角に、

 ずっと“特別な時用”として眠らせていた米袋がある。

 魚沼産の、やけに重たい名前のついたコシヒカリ。


 今までは使わなかった。


「みんなで食べるなら、ブレンド米でいいよね」

「どうせおかずで味つくし」

「一人だけ良いの、なんか気まずいし」


 理由はいくらでもあった。



 今日は、袋を開けた。


 米を研ぐ音が、やけに大きく聞こえる。

 水を含んだ粒が、指の間でころころ転がる感触がはっきりわかる。


 炊き上がりの湯気は、

 いつもより甘い匂いがした。


 おばんざいは、地味なものばかりだ。

 ひじきの煮物、焼き鮭、少しだけのだし巻き。

「米に合うかどうか」だけを基準に選んだ。



 輪っぱにご飯を詰める。

 白が、きれいすぎるほど白い。


 ナコハは、一瞬だけ手を止めた。


 ――誰に遠慮してたんだろう。


 もう、

 分け合う相手はいない。

 匂いを気にする人も、

「それ高いやつ?」と笑う人もいない。



 会社に着くと、フロアは相変わらず無音だった。

 昼休みになっても、チャイムの意味は薄い。


 いつもの席に座り、

 輪っぱの蓋を開ける。


 湯気が、ひとり分だけ立ち上る。


 一口目のご飯は、

 驚くほど素直な味がした。


 美味しい、というより、

 ちゃんと、ここにいる 味だった。


 ナコハは噛みながら、少しだけ笑った。


「……なんだ。

 最初から、これでよかったんだ」


 それは反抗でも、贅沢でもない。

 誰かを見返すための行為でもない。


 ただ、

 遠慮する相手が消えた世界で、

 自分に戻るための小さな動作だった。



 そしてナコハは、このときまだ知らない。


 この輪っぱの弁当が、

 彼女が「残された側」から

「自分で選ぶ側」へ移る、

 最初の合図になることを。

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