サジタリウス未来商会と「名前の値段」
安藤という男がいた。
30代後半、大手広告代理店に勤めるエリートだ。
仕事では次々と成功を収め、社内でも一目置かれる存在だが、どこか虚しさを感じていた。
「俺が頑張っても、結局、会社の名前ばかりが評価されるんだよな」
安藤は、大手企業で働くがゆえに、自分個人の功績が埋もれてしまうことに不満を抱いていた。
ある夜、仕事の帰り道、安藤は奇妙な屋台を見つけた。
それは薄暗い路地の奥にひっそりと佇んでおり、古びた木製の看板には手書きでこう書かれていた。
「サジタリウス未来商会」
興味を引かれた安藤は屋台に近づいた。
屋台の奥には、白髪混じりの髪と長い顎ひげを持つ初老の男が座っていた。
その男は、安藤を見て穏やかに微笑んだ。
「いらっしゃいませ、安藤さん。今日はどんな未来をお求めですか?」
「俺の名前を知っているのか?」
「もちろん。あなたのような方が訪れるのを、ずっとお待ちしていました」
男――ドクトル・サジタリウスは、懐から奇妙なカードを取り出した。
そのカードには「名前取引」と書かれている。
「これは何だ?」
「これは『名前の売買契約書』です。この契約を結べば、あなたの名前を特別な価値あるものに変えることができます」
「名前を売る?」
「ええ。あなたの名前そのものがブランドとなり、どこに行っても、それだけで評価される存在になるのです」
安藤は半信半疑だったが、次の言葉に引き込まれた。
「あなたが求めているのは、会社や組織ではなく、安藤という個人が輝く未来ではありませんか?」
その言葉に動かされた安藤は、契約書にサインをした。
すると、サジタリウスはにやりと微笑みながら、こう言った。
「これで契約成立です。明日から、あなたの名前は特別な力を持ちますよ」
「特別な力?」
「試してみれば分かります」
翌日、安藤は驚くべき変化を実感した。
取引先との打ち合わせで、自己紹介をすると、相手の態度が一変した。
「安藤さん……!お噂はかねがね伺っています!」
「ぜひ、御社のプロジェクトにもお力をお貸しください!」
それまでは、会社の看板に頼らなければ取引が進まなかったが、この日は安藤の名前だけで交渉がスムーズに進んだ。
その後も、どこに行っても「安藤」という名前だけで信頼を勝ち取ることができた。
「これが、俺の本当の実力だ……!」
安藤は成功の連続に酔いしれた。どんな仕事も名前一つで決まり、自分が本物のエリートになったような気分だった。
しかし、しばらくすると、奇妙なことが起き始めた。
街を歩いていると、見知らぬ人々が安藤を指さして囁く。
「彼があの安藤だ」
「すごい人だって噂よ」
それだけなら良かったが、次第に知らない人から理不尽な期待や無理難題が押し付けられるようになった。
「安藤さんならこれくらいできるでしょう?」
「あなたの名前に泥を塗らないように、完璧な成果を見せてください」
さらに、職場でもトラブルが起きた。
あるプロジェクトで、安藤が計画した企画がミスを犯し、クライアントからクレームが入った。
すると、上司や同僚が一斉に彼を責め始めた。
「安藤の名前があるんだから、失敗は許されないだろう!」
「君がいるだけで信頼されるんだ。その信頼を裏切ったらどうなるか分かるよね?」
安藤はその重圧に耐えきれなくなり、ついにサジタリウスの屋台を再び訪れた。
「おい、ドクトル・サジタリウス!この名前の力、返したい!」
サジタリウスは穏やかに笑いながら言った。
「契約は成立しています。一度手に入れた名前の価値を手放すことはできません。ただ……」
「ただ?」
「新たな契約を結ぶことで、解決の糸口を見つけることは可能です。たとえば、名前の力を別の誰かに分け与えるという方法もあります」
安藤はその言葉に興味を示した。
「分け与える?どういうことだ?」
「あなたの名前の価値を、他人に譲渡することです。その結果、あなたの名前は普通のものに戻り、平穏な日常が訪れるでしょう」
安藤は迷った。名前の力を手放せば、これまでの成功はすべて失われるかもしれない。
だが、このまま重圧に押しつぶされる生活を続けることも耐えられなかった。
「分かった。その方法で頼む」
サジタリウスは満足げに頷き、契約書を差し出した。
翌日、安藤は再び街を歩いたが、周囲の反応は以前と変わっていた。
もう誰も彼を指さして囁くことはなく、見知らぬ人からの期待も押し付けられない。
「ああ、これで楽になった……」
平穏を取り戻した安藤は、満足感に浸りながら自分の名前を呼んでみた。
「安藤……ただの名前に戻ったんだな」
だが、その声は、彼の後ろを歩いていた見知らぬ若者の耳に届いていた。
「安藤だって……もしかして、あの安藤さん!?」
若者は興奮した様子で安藤を振り返り、言った。
「あなたの名前、さっき譲り受けたんです。これから、僕の名前も安藤です。ありがとう、サジタリウス未来商会の素晴らしい取引を!」
その瞬間、安藤は理解した。
自分の名前の価値は消えていない。ただ、それが「別の誰か」に完全に移っただけだったのだ。
「サジタリウス……!」
憤りを抱いたが、どこかで自分が選んだ結果でもあることを悟り、安藤は黙り込んだ。
その日、サジタリウスは静かに屋台を片付けながら、満足そうにつぶやいた。
「名前の価値は、使い方次第ですからね」
【完】