第45話
「わたくしは……」
ダヴィトの気持ちは嬉しく、そしてなぜか哀しい。
「ダヴィト、気持ちはとても嬉しいけど、わたくしはそれを望みません」
「っ……。失礼しました」
そう言ってわたくしを抱く手を彼は再び離そうとし、わたくしは袖を握りしめてそれを止めます。
それではダヴィトの罪に、不名誉になってしまう。わたくしにも……自分の不幸で彼の名を汚さない程度の矜持はあります。
「ダヴィト、貴方が攫うのではなく、わたくしが貴方の元に向かうから。そうしたら貴方はわたくしの為に戦って?」
結果は変わらないでしょう。わたくしと彼の前には屍山血河が築かれる。ただ、それは名誉の問題なのです。
彼が頷き、頭に顎が触れました。耳元で声が聞こえます。
「御意……必ずやそう致しましょう。俺は貴方の騎士ですから」
「ありがとう、我が騎士」
…………
そうして数日の準備の後、彼は数多の騎士や兵たちと共に西へ、国境沿いのエーガーラント領へと向かいました。総大将は王太子、つまりわたくしの兄が努めるようです。
もちろんわたくしが出兵式を直接見ることは叶いません。今回もイザークに見に行ってもらったのでした。
騎乗したダヴィトが兜を脱ぎ、北の離宮に向かって頭を下げると、幾人かの騎士や兵士たちも真似て礼をとって下さったのです。
こうして、彼のいない生活が始まりました。
今までのような静寂と冷遇の日々に戻ったかというと、そういうわけでもありません。
昔より具現化する霊の数がそもそも増えていること、カイェターンお爺さまの使い魔の鼠がいること、従者のヴィートさんが二日に一度くらい来て何か必要なものを持ってきてくれること、ノートラント伯もたまに来てくださること、お城の使用人が持ってくる食材や布が増えたこと、使用人を通じてお父さまと手紙のやりとりを行うようになったこと……。
全て、ダヴィトがこちらに来るようになってからの短い間での変化です。だけど、彼はここにはいない。
「はぁ…………」
「スラヴァちゃんが恋煩いの溜息を……!」
足元で鼠がちょろちょろと何か言っています。
「そんなに溜息ばかりしていては痩せてしまうぞよ」
「……お爺さま、わたくしお爺さまのアンデッドジョークに付き合う気力もありませんの」
鼠がかくんと顎を落としました。
『わしには痩せる腹もないんじゃがな! アンデッドジョーク!』でしょう。
「よよよ……スラヴァちゃんが冷たい」
見かねた女性の霊たちが気を紛らわすために時間つぶしのやり方を教えてくださいました。
例えば刺繍です。
布と糸、針が贈られてきているので、刺繍枠をヴィートさんに持ってきてもらい、ちくちくと一針ずつ布に紋様を描く方法を教えてくれます。
「そう、ここに糸を通して……」
ヘドヴィカが教えてくれていると、他の女性の霊たちが口を挟みます。
「姫様、自らの刺繍の入ったものを身の回りに飾るのは素敵ですわよ」
「そうそう、旦那様にも刺繍入りのハンカチとかクラヴァットを身につけてもらうとか」
「ふふ、スラヴァちゃんの頬が赤くなったわ。可愛いわね」
これが女性たちの姦しさというものでしょうか。
わたくしは頭をぷるぷると振って針先に集中します。
「あらあら、誰を想像したのかしら?」
「決まってますわよねー」
「ねー。騎士様よねー」
「戦に出られるのですし、御守りを縫うのも素敵」
「そこに護法の魔術を付与するのはどうじゃ」
はーっ、と溜息が重なりました。
「これだから殿方は」
「これだから魔術馬鹿は」
「浪漫がありませんわ!」
机の上で鼠がぷるぷると震えています。
「あっ、あの!」
わたくしが声を挟みます。
「刺繍が終わったら護法の魔術を教えてください」
「も、もちろんじゃ!」
鼠は小躍りして机の上から転げ落ちました。
「健気だわ、スラヴァちゃん。あんなのに教えを乞うてまで彼のために尽くそうとするなんて」
「そうね、でも鼠がつけあがるのは業腹ですわ」
こうして一月ほどが過ぎたでしょうか。
戦況は分かりません。そもそもこのお城から遠く離れたところであるため、連絡にも時間がかかること。
わたくしが軍の情報に触れる立場にいないこと。
お父さまへの手紙でもそれとなく尋ねています。まだ戦は続いていて、お兄さまやダヴィトが死傷したというような報告が来ていないことは教えてくれましたが、それ以上の情報をいただけるはずもございません。
ただ、祈るのみです。
せめて魔術の研鑽は忘れずに行うことと、刺繍ではダヴィトの無事を、彼の帰還を祈って一針一針模様を描いていくこと。
きっとこんな日が続いて、いつかひょっこり彼が帰ってくる。そう思っていた、あるいはそう信じていたのです。
ですが、それはある日突如として破られてしまいました。