第43話
「忘却という加護についてです」
ぴくり、とオンドジェイ陛下の眉が動いた。彼が手を叩く。
部屋に待機していた侍従や近衛のうちおそらく地位の低いものからであろう半分ほどが部屋から出ていった。
側近の中でも高位の者以外には聞かせられぬ話ということだ。
「……続けよ」
「あれは、王位の加護に在らず。故に望まぬ対象の記憶を奪うことはできぬのだと」
陛下は椅子の背に身を預けてずり落ちるような姿勢となりため息を吐いた。
俺は続ける。
「子を忘れたがっていた親が謝罪したいなど、なんの信用がありましょうか。忘却の効果が失われているということは、その時の姫を忘ようとしていた陛下の心が戻ってきたことに他ありますまい」
陛下は自嘲するような笑みを浮かべて言った。
「ヤロスラヴァの側に古代の王族がいるということは間違いないようだ。精神系加護の詳細は秘されている。それを知るのは王族、司祭、学者くらいであろうからな」
なるほど、確かに俺のような田舎騎士には本来知りえぬことである。
俺は頷いた。
「……卿の言う通りだ」
近衛のズィクムント卿が陛下に視線を向ける。そこには咎めるような意図が込められているように見えた。
「率直に言おう。こうして話している余の現在の心はまだ八年分の靄が晴れた故の混乱のさなかである。嵐の中の鳥のようなものであり、嵐が収まるまで分析など出来ぬ。……だが過去において、余の心にあの子を疎む気持ちはあった」
俺は頷く。
「だがそれでも。神にかけて、父祖の霊にかけて、王の名にかけて誓って言おう。今も、過去も、余が我が娘ヤロスラヴァを愛していないわけではない。いや、愛さないはずがあろうか。それは余の妃も、息子、娘たちも同じこと」
ラドによれば八年前に姿を見せなくなるまで、王が、王妃が美しく聡明な末姫を愛してやまないことは、彼女の姿を見たことのない王都の民衆まで知っていたとのことだった。
真実を感じる言葉ではある。
物語など碌に読まぬ俺でも知っている。愛が裏返って憎しみになるという話もあれば、愛すると同時に憎むという話もあるのだから。
「では疎む気持ちはなぜ生まれましたか」
ため息が吐かれる。
「責任を転嫁するつもりはないが、ツォレルン帝国だ。かの国の当時の王太孫マティアスとヤロスラヴァが婚約を結んでいたのだが、彼女が霊王であることを理由に一方的に婚約を破談とした。その後、それを理由に貿易でも軍事でも難癖をつけてくるようになったのだ」
なるほど。国境のエーガーラント領出身である自分からすればツォレルン軍の動向などと重ね合わせれば、陛下の言葉に信憑性はあるように思う。
陛下も、妃殿下も苦労なされたのだろう。
「陛下たちの御心労に関しては理解いたしました。俺のような一介の騎士には分からぬような外交的問題もあったのでしょう」
陛下と視線が交わる。まるでここ数日で一気に老けたようだ。隠せぬ心労が顔に出ている。
「それは認めた上で言わせていただきます。陛下たちが意図したにせよそうでないにせよ、貴方たちはその苦しみを一人の、たった八歳の少女に押しつけたのです」
沈黙が部屋に落ちた。陛下が額に手をやり、目元が隠れる。
俺は視線を逸らし、窓の方を見る。秋空に雲が千切れ飛び、庭園の木々は美しく刈り込まれ、黄色く色づいて美しかった。
同じ城内にありながら、北の離宮の前庭には人の手が入らず寒々しく感じるのとは違うものだ。そう感じた。
独り言のように呟く。
「殿下はそれを知り、悲しんでおられた。恨まぬのが彼女の美徳故か、そういった感情を学んでいない故かは分かりかねますが。俺は殿下の配下としては最も新参ですが、古参の配下たちには思うところもあるでしょうな」
「古参の配下……?」
ズィクムント卿が呟く。
「霊たちですよ。例えば今朝、見事な細工の化粧道具を届けていただきましたが」
「ああ」
「殿下の侍女の霊は、まず針や毒が仕込まれていないか確認していましたね。その程度には信用がない」
「……っ、具現化するほどの精度で複数の霊を使役しているのか」
卿は彼女の力を感じたようだった。俺は頷く。
「然もあらん」
陛下が言う。
「霊王とはそういうものだろう。そしてその霊なる侍女の警戒も当然のことであろうな」
「王よ」
びくりとズィクムント卿の手が動いた。俺は構わず続ける。
「忘却が神の慈悲であると言うのであれば、貴方たちの心の傷口は塞がり、今は少し古傷が痛むようなものでしょう。ですが殿下は? ヤロスラヴァ姫は八年の長きにわたって傷口から血を流し続けているのです」
「……うむ」
「俺は戦に向かいます。ですが、彼女の護衛騎士として告げましょう。その間に王や王妃、その他の者が彼女を王城に招くことを許さない。直接謝罪するのであれば、自ら離宮へと赴き頭を垂らして示しなさい」
「その言葉、心に留めおこう」
そうして、俺たちは軍議の場へと戻ったのだった。