第42話
ヤロスラヴァ姫は泣き疲れて眠ってしまった。俺は片手を彼女の膝裏に差し込んで立ち上がる。
軽い。俺たち男や騎士とは違う軽く柔らかい身体。それにしても同年代の女性たちよりもずっと小さく弱い身体であろう。
「二階までお運びいただけますか?」
カイェターン殿の鼠をどこかに捨ててきたヘドヴィカ殿が声をかける。
俺は頷くと彼女の部屋へと立ち入った。
南向きの日当たりの良い部屋であるが、家具が少なく、色も少ないからであろう。寒々しい、殺風景な部屋であった。
部屋の窓から見える聳え立つ王城に、俺は怒りとやりきれなさを覚えた。
我が姫をベッドに横たえると、ヘドヴィカ殿と位置を変えた。彼女は姫に布団をかけて、俺に向き直って淑女の礼をとる。
「ありがとう存じます。……服は後ほどこちらで洗濯いたしますわ」
まあ、肩のあたりが涙やらなんやらで酷いことになっているし、姫に握られたところは皺になっているだろう。
「いえ……姫をよろしくお願いします」
俺は頭を下げて退室した。姫をヘドヴィカ殿やシェベスチアーン殿たちに任せて出ないとならん。
後ろ髪を引かれるような思いではあるが、今日は王城に行く予定があるのだ。ツォレルン帝国との戦に向け、騎士たちを集めての軍議、御前会議である。
…………
「ツォレルン帝国が……エーガーラント領に資材を……運び込んでいるという情報を入手……しています」
会議の場、軍師が地図を前にして、しどろもどろにツォレルン軍の状況を説明する。
何か言っているのは分かる。だがその声は俺の耳を右から左へと通り抜けていくだけだ。意味が頭に入っていかない。
「まずは大きく城壁の崩れた領主城の……城壁を修理、特に東側……、我が国に向けた防備をする……ためでしょう」
……見て欲しかっただけ。
そんな願いとも言えぬような願いが叶えられないというのか。誰も彼もが彼女を忘れたがっていたというのか。
「それが終わればエルブ川を……大軍を以って渡河し、我が国の中心部を攻めて……くるつもりかと……」
軍師の声が不自然に止まる。
顔を上げれば、軍師はひっ、と過呼吸のような悲鳴を起こして倒れた。
指で机を叩きつつ、視線を横に滑らせれば、騎士たちの倒れる音が会議室に響いた。
王の脇に控える近衛のズィクムント卿が言う。
「黒騎士卿、殺気を抑えられぬか」
「……これは殺気にあらず。ただ、抑えきれぬ怒りと、不甲斐なさが身を焼くだけだ」
「それは汝の主人に関わることだな」
確認するような彼の言葉に俺は頷く。
彼は跪き、陛下に耳打ちした。陛下は僅かに震える手で杯をとり、中の液体で唇を湿らせてから告げる。
「会議は一旦休憩とする。フェダーク卿、別室へ」
安堵のため息が部屋に満ちた。
以前の部屋で再び陛下と対面する。陛下は何を口にするより前に、顎を引いて謝罪の意を示した。
「先日は余の使者が失礼した」
王たる者、頭を下げてはならぬ。よってこれが最大限の謝意であるとわかってはいる。それでも平民に近いような俺には軽く感じてしまうし、そもそも謝罪を受けるべきは俺ではないという思いが起こる。
俺も頷きで返す。不敬な所作である。だが誰も咎めようとはしなかった。
「卿の言葉に過去を思い出しつつある混乱するさなかに、まずは呼び出さねばという思いより急ぎ使者を送ってしまった。使者が不敬な言動であったとあらば、それはかつての余のヤロスラヴァへの処遇を見てだろう。すなわち余の責任である」
「承知」
「ただ、今朝ズィクムントが汝に会った報告は受けているが、その時には汝が怒りを露わにするほどにまで機嫌を害している様子ではなかったと。そして渡させた手紙は余が書いたものであるが、決して不快にさせる言葉を書いた覚えはないのだ」
俺は深く息を吸って吐いた。こんなことで怒りが収まり、なくなるわけではない。だが冷静に話さねばならぬ。
「俺も御手紙拝見いたしました。あの内容には問題はありません。ただ、以降はあそこまで平易な文面である必要ありませんが。彼女は十歳の子供ではなく、本来なら社交界にいるべきお歳にあられます故」
「……しかし八歳よりこの方、ヤロスラヴァに家庭教師などをつけてはおらぬが?」
俺は頷く。
「陛下は八年という年月を忘れていた故か、軽視するきらいがありますな。八年とは大人であっても孤独で気が狂う年数です。彼女が生きていたのは霊たちの助けあってのことですが、そこで王家の姫に相応しい教養などを学んでいますよ」
「そうなのか? だが霊といってもそのようなものを教えることが……」
なるほど、普通の霊であればその通りだろう。だが北の離宮という場所が幸いしたのだ。それもまた彼女の運命の力と言うべきか。
……ふむ、魔術の話はしない方が良いだろうな。
俺は剣を鞘ごと外して前に突き出す。
「ヤロスラヴァ姫の使役する霊の一人より賜った宝剣です。彼女を護る騎士としてある限りにおいてこれを授けんと」
「……まて、それは失われた王家の秘宝では?」
「そうでしょうな」
俺は肯定する。
「我が姫が使役する霊はこの地の古代の王族と、それ仕えた者たちですので。これはある王の腰に佩かれていたものです」
「なんと……」
俺は腰に剣を戻す。
「さておき、俺が怒りを感じている理由についてお話いたしましょうか」