第30話
ラドが離宮を辞去し、夕方。使用人が食事と水を届けにくる。俺はそれを物陰から監視していた。
ここに悪魔がいると言っていた女官の中の一人であるように見える。
届けられたのは毒こそ入っていなさそうだが粗末な食事。甘味すらつかぬのは平民でも貧民の食事のようだ。
はっとした表情をヤロスラヴァ姫は浮かべて言う。
「たいへん、フェダーク卿のお食事がないわ」
「お構いなく。俺の食事は不要ですよ」
戦や旅では一晩やそこら食事ができないことも多い。慣れたものだ。そう伝えたのだが、彼女は必死に首を振る。
「そんなのはダメよ、イザーク! イザーク!」
「はいはいっと」
軽薄な声と共に、一体の男性の霊が現れる。
正直、今まで誰もいなかったところから突如として現れるのは心臓に悪い。冷静であるように振る舞っているけどな。
だが、彼女にとっては当然のこと。仕える側が慣れていかねばならんことだ。
「イザーク、これをフェダーク卿のお食事に」
「大丈夫ですよ。こっそり食材を蓄えているので、数日くらいの卿のお食事は用意できます」
「流石だわ!」
イザークと呼ばれた霊は器用に片目を瞑って見せると、俺の方に向き直った。
「料理人のイザークっす。フェダーク卿、宜しく」
「ああ、宜しく。君が殿下の食事を?」
彼は料理に手を向けると、それを魔術の類か宙に浮かせながら言った。
「姫様にこんなもの食わせる訳にはいかないじゃないっすか」
俺は頷く。
「イザークの料理は美味しいのよ!」
「こう見えても王の料理番だったんだよね」
なんと、俺と同年代か少し上程度に若く見えるが、そうであるなら余程の腕前だったに違いない。
彼は肩を竦める。
「ただまあ、ここじゃあ食材がまともに手に入らない。時折、城内の食材や調味料を掻っ払ってはきてたが、そもそも王城の中心部は霊除けの結界が張られているから動ける範囲が限られているんだ」
「そうなのか。霊ならぬ身である俺には分からなかったな」
彼は頷き、こちらを見る。霊ゆえにぼやけていて色までは分からんが、真摯に俺を見つめているのはわかる。
「さっきの伯爵、あんた親しいんだろう? 明日叙任式に来たらさ、食材を持ってきてもらうように依頼できねえかな」
「分かった。明日の俺の叙任祝いにまず食材を持ってくるように使用人を走らせて貰おう。それと姫の財産があるというなら、そこから幾許かを渡して食材を長期的に卸させるのはどうか」
彼は満面の笑みを浮かべた。
「最高だぜ」
「姫様、とりあえず飯作ってきます。それと明日はご馳走ですよ」
「まあ!」
「今まで見せることができなかった、俺の本当の腕前ってやつを見せてやりますよ。もちろんフェダーク卿と伯爵にもね」
食堂で供された夕食は、あの不味そうな食事をベースとしていた。スープは俺の分もかさ増ししたので具はほとんど無い。ただ味はよく整っていたし、温まるものであった。彼が焼いたのであろう白パンの上には刻まれた茹で卵やベーコン。甘味としては果物のコンポートまで付けられていた。
なるほど、あれをこうやって美味く仕上げていたのかと感心するものであった。
食後、ヤロスラヴァ姫や霊たちと話を楽しむ。霊たちは彼女の死霊術による配下ではあるが、物語で言われるような悪しき霊たちとは異なり、誰もが人間的な感性を有し、そして誰もが彼女を愛していた。
俺もまた彼女に仕える者として歓迎されているように思う。
「ではヤロスラヴァ殿下、お休みなさい」
「はい、フェダーク卿、お休みなさい。それと護衛宜しくお願いいたします」
俺はエントランスホールで彼女に挨拶する。鋼の鎧は食前に脱いだ。腰には剣を吊るし、着ているのは鎧下の厚手の服と上衣、左手には屋敷で借りた洋燈と毛布。
二階へと上がる彼女を見送り、外に出た。玄関の脇には衛兵の待機場所があるが、使われている気配はなく内部には椅子も何もない。いずれはこういった場所も掃除をして使えるようにすべきとは思うが、今日できることではない
天気は良く、晩秋の乾いた空に星々が瞬き地面を僅かに照らす。
俺は守衛所のカウンターとなっているところに洋燈を置き、地面より一段高くなっているところをさっと払って毛布を敷いた。
ふ、と少し暗くなる。
北の離宮の玄関の灯りが消されたのだ。
「暗いんだよな……」
思わず呟く。
俺にとって明るさが不足しているという訳ではない。遍歴の旅の中、闇夜を屋外で過ごしてきたことなど幾度もあるし、それなりに夜目も効く。
暗いのは屋敷である。北の離宮は白い瀟洒な屋敷であり、城内の建物や王都の中心部にある貴族のタウンハウスなどと比べれば少し小さな建物だ。
それでもまだ日没直後の時間に、この立派な建築物から橙色の光が漏れるのは二階の一部屋、おそらく殿下のいるその部屋だけである。
それがどれほど暗く、侘しいことか。
彼女の家族たちの住まう王城が、どの窓にも煌々と明かりが灯り、矢間からも光が漏れ出していることと比べればその侘しさはいかばかりか。
彼女は何を想ってこの光を見ていたのか。幽閉された八年を過ごされたのか。
怒りと悲しみが胸を満たす。
俺は一睡もせず、翌朝を迎えることとなった。